三世の生命

*死は終りではない

 仏法を知らぬ者が懐く、生命に対する最大の偏見は、

  「生命はこの世限り」「死ねばすべては終り」と思っていることである。

   その結果、自己を消滅させる死に対して限りない恐怖を懐いたり、

  あるいは死後の因果を無視して放縦に走る。

 

 だが、死は決して終りではない。

  生も死も、永遠の生命が常住していく上での存在形態の変化にすぎない。

  生命そのものは新たに生ずるものでもなければ消滅するものでもない。

 これを「本有常住」という。

 「本有」とは、我らの生命は、神が作ったとか誰が作ったなどというものではなく、

    大宇宙と共に本から有るということ、

  また「常住」とは、一瞬の断絶もなく存在し続けているということである。

 

 この生命の本質について大聖人は総勘文抄に
 「生と死と二つの理は、生死の夢の理なり、妄想なり、顛倒なり。

  本覚の寤を以て我が心性を糺せば、

   生ずべき始めも無きが故に死すべき終りも無し、既に生死を離れたる心法に非ずや。

   劫火にも焼けず、水災にも朽ちず、剣刀にも切られず、弓箭にも射らず、

  芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず、

      虚空の中に満つれども虚空も  広からず心法も狭からず」と。

――生と死の二つの現象を、

  生命そのものの新たな発生とか消滅と思うのは夢の理であり、妄想である。

  もし本有常住の覚を以て我が生命の本質を見れば、

   生ずべき始めも無いのであるから死すべき終りもない。

         まさに生死を離れた無始無終の存在なのである。

 

 したがってこの生命は、劫火にも焼けることなく、水災にも朽ちることなく、

       刀にも切られず、弓矢にも射られるものではない。

    また芥子粒のような小さなものの中に入れても、

       芥子粒が広がったり心法が縮まったりすることもない。

  逆に虚空の中に遍満させても、虚空が広すぎたり、心法が狭いということもない――と。

 これすなわち、大宇宙と共に常住する我々の

   生命の不可思議な本質を御指南下されたものである。

 

*なぜ生死があるか

  では、この本有常住の生命になぜ生死があるのかといえば、

  生死は生命が常住する上での妙理なのである。

  換言すれば、生命は一瞬たりとも静止しているものではなく、

    絶えず変化し、生死・生死を繰り返しながら常住しているのである。

 

 このことは我らの生命だけではない。

  およそ宇宙にある万物はみな因縁によって生じ、因縁によって滅している。

  しかし形の上に生滅はあっても、その質量は不変であり、エネルギーは不滅である。

  さらに大きく見れば、宇宙そのものも成・住・壊・空という

      生滅のリズムを繰り返しつつ存在しているのである。

 

 人間の生命もまた然り、

  生死・生死を繰り返しながら、大宇宙と共に常住しているのが実相である。

ゆえに大聖人は
  「我等が厭い悲しめる生死は、法身常住の妙理にて有けるなり」(色心二法抄)と。

  ここにいう「法身」とは生命のことである。

また
  「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」(生死一大事血脈抄)

                         とも仰せられている。

――生死という現象は、生命そのものに具わる不可思議な作用であり、

  また「有無」すなわち「生」は形づくられるから「有」、

    「死」は目に見えぬ無相の状態になるから「無」、

  この有相・無相の変化も、永遠の生命を覚知した目で見れば、

                  本有の生死・本有の有無となる――と。

 

 ところで凡夫が「死は生滅、すべての終り」と思うのは、

  死によって生命が無相の状態になることを、即「無」と錯覚するところから起きる。

  しかし無相とは、姿・形はないがそのものは存在しているという状態である。

      たとえば空中に存在する紫外線・赤外線・電波などは、

  肉眼では姿・形をとらえることはできない。

 しかしその存在を疑う者はないであろう。無相を「無い」と即断してはいけない。

 仏法では死後の生命を「中有」という、中有の生命は無相である。

 

涅槃経には
 「中有の五陰(生命本源の五要素たる色・受・想・行・識)は

            肉眼の所見に非ず、天眼の所見なり」と説いている。

  この無相の生命が、夫母を縁として肉体を形づくり相を現わすのが「生」であり、

  組織した色法(肉体)を大宇宙に還元して再び無相の心法に帰するのが「死」である。

 

 このことを色心二法抄には
   「天地冥合して有情・非情の五色とあらはるる処を生と云い、

        五色の色還って本有無相の理に帰する処を死とは云うなり」と説かれている。

 「天地」とはここでは父母の意である。

 以て、生死という現象が、永遠の生命における有相から無相、

  無相から有相へという存在形態の変化に過ぎないことがわかるであろう。

     そして大事なことは、我々の生命はこの生死をくり返しながら、

  過去世・現世・未来世と、三世にわたって連続し、

  これに伴い幸・不幸の因果も鎖の輪のごとく三世につながっているということである。

 

*生命の連続

 では、三世にわたる生命の連続を、さらにくわしく見てみよう。

 このことを説かれたのが「十二因縁」である。

 十二因縁とは、

   生命が因果をともなって三世を流転していく実相を説き明かしたものである。

 その十二とは、

 @無明、A行、B識、C名色、D六入、E触、F受、G愛、H取、I有、J生、K老死

                               である。

 

 それぞれを簡単に説明すれば

 まず@とAとは過去世の因を二つに要約したものであり、

    @の無明とは、過去世における煩悩

    Aの行とは、過去世に造ったである。

 BとCとDとEとFは現世に受けた五つの果で、

    Bの識とは、過去世の業力により、母の胎内に宿った心法。

    Cの名色とは、身心が胎内で発育し始めるが、

         未だ眼・耳・鼻・舌の四根が具わらない状態

    Dの六入とは、胎内にあって眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が具足した状態。

    Eの触とは、母体から生まれ出てさまざまな物に触れるが、

      未だ苦とか楽とかの分別ができない状態。

    Fの受とは、次第に身心が発達し、好きなこと嫌いなことの分別はつくが、

            未だ愛欲は起こさない幼児期をいう。

 Gの愛とは、事物や異性に愛欲を感ずる思春期の状態。

 Hの取とは、成人して盛んに事物を貪る状態。

 Iの有とは、来世の果を決するもろもろの業を造ること。

 JとKは来世の二果で、

    Jの生とは、現世の因(愛・取・有)により未来世の生を受け、

             母の胎内に入ることをいう。

    Kの老死とは、来世に老いそして死することをいう。

 

このように十二因縁は、三世にわたる生命の連続を、

   因果のうえから説き明かしたものであり、過去の因と現在の果と、

   二重の因果が説かれていることから「三世両重の因果」(十二因縁御書)といわれる。

 

 また十二因縁は「煩悩・業・苦の三道」でもある。

   煩悩とは凡夫の欲望・迷い、とは煩悩に引かれて行う身・口・意の所作、

   とは業の結果として我が身に受ける苦果である。

  たとえばこの三道を餓鬼界の立場から見れば、

            「お金が欲しい、ほしい」と貪る心は煩悩

  この煩悩に引きずられて盗みを働けばそれが

    その結果餓鬼界の苦報を受けることがである。

 いま十二因縁をこの煩悩・業・苦に当てはめれば、

    @無明・G愛・H取の三つは煩悩であり、

    A行・I有の二つは

そしてB識・C名色・D六入・E触・F受・J生・K老死はである。

 

 当体義抄には「煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じ」と仰せられているが、

  強き信心に立つ者は、

   煩悩般若(仏の智恵)に、

   解脱(自在・利他の境界)に、

   法身(仏の清浄な生命)に転じ、

    現当二世にわたって大幸福の境界を得るのである。

 

*中有から再び生へ

 生命の三世にわたる連続の中で最も難解なのは、

   死後の生命が再び生まれ出るということ。

 これを十二因縁の上から見れば、「行」から「識」、また「有」から「生」に至る過程である。

 これについて説明すれば、

  死んでから再び来世の生を受けるまでの中間の生命を「中有」という。

  前述のごとく中有の生命は姿・形もなく、肉眼で見ることはできない。

    いわゆる無相の状態である

 

 生命が中有にある期間については、

あるいは七日、乃至四十九日、あるいはさらに長期と、長短不定であるが、

  「極悪・極善には中有なし、極善の人は直ちに成仏す、

              極悪の者は直ちに悪趣に堕つ」(十王讃歎抄) とあるように、

  死後直ちに成仏する極善の人と、

  直ちに地獄に生ずる極悪の者の中有は限りなく短く、無いに等しい。

 ゆえに中有は極善・極悪を除いた一般について論じられるところである。

 

 本尊問答抄には、臆病のゆえに信心を貫けなかった道善房の死去に際し、

   大聖人が浄顕房に仰せられた次の御文がある。

 「故道善御房は師匠にておはしまししかども、

  法華経の故に地頭におそれ給いて、心中には不便とおぼしつらめども、

        外にはかたきのやうににくみ給いぬ。

  後にはすこし信じ給いたる やうにきこへしかども、臨終にはいかにやおはしけむ、

  おぼつかなし、地獄まではよもおはせじ、又生死をはなるる事はあるべしともおぼへず、

  中有にやただよひましますらむ、と歎かし」

 

 極善でも極悪でもない道善房のゆえに、

  直ちに地獄とも思えない、さりとて成仏するとも思えない、

   ゆえに「中有にや、ただよひましますらむ」と仰せられるのである。

 また大聖人は、一般凡夫の死から中有に至るまでの状態を、

   譬えを以てわかり易く次のように説かれている。
 「人、一期の命盡きて死門に趣んとする時、

   断末魔の苦とて、八万四千の塵労門より色々の病起って競い責むる事、

      百千の鉾・剣を以て其の身を切り割くが如し。

  之に依って眼闇く成って見たき者をも見得ず、

       舌の根すくんで云いたき事をも云い得ざるなり。

――魂の去る時は目に黒闇を見て、高き処より底へ落ち入るが如くして終る。

 さて死してゆく時、唯独り渺々たる広き野原に迷う、此を中有の旅と名くるなり。

されば路にゆかんとすれども求むべき資糧なく、――又闇き事闇夜の星の如し」                

                                    (十王讃歎抄)と。

 さて、このような中有にある無相の生命が、

  生前の業力によって、生まれるべき父母を定めて胎内に宿るのである。

      この母胎に入った極微の生命を「識」という。

 すなわち識とは、父母の精血・赤白の二滯(受精卵)に宿った心法であり、

                 「識神」ともいわれる。

 「我等其の根本を尋ね究むれば、父母の精血・赤白二滯和合して一身と為る」                                                          (始聞仏乗義)

  「魚鳥を混丸して赤白二滯とせり、其の中に識神をやどす」(佐渡御書)と。

 

 さらに日寛上人は、中有の生命が母胎に宿る過程について
 「衆生、全生に善悪の業を作り已って死して中有にある時、
其の業力に由り、

   能く生処の父母の交会を見て愛心を起こし胎内にやどる、これを識と云うなり。

             識と云うはココロ  (心法)なり」と。

 

 また天親菩薩の倶舎論には、

  “中有が業力により一定の生処に趣かんと決まった時には、

     いかなる力もこれを転ずることができないこと、

  中有の行動は金剛を以ても遮ることができないこと、

       そして母胎に入って生を結するに至ること”等が、くわしく説かれている。

   かく見れば、親と子の生命は本来別々のものであることがわかろう。

        親が子を作るのでもなければ、子は親の延長でもない。

  それぞれ独自の生命が、宿習によって親子の縁を持つにすぎない。

 

ゆえに大聖人は
「父母となり、其の子となるも、必ず宿習なり」(寂日房御書)
                                                                    ................. と仰せられる。

  したがって邪見の親を持つのも、あるいは我が子に苦しめられるのも、

  お互いに親となり、子となる宿習によるのである。

  ゆえにもし親が信心して自分の宿習を変えれば子が変化し、

     また子が信心して境界を変えれば親も変わってくるのである。

 また、遺伝ということを仏法ではどう見るかという問題について、一言ふれておく。

    親の形質は遺伝子によって親から子、子から孫へと引き継がれる。

  この限りにおいては子は親の延長のごとくに見えるが、

           仏法はさらに深く親子の関係を見つめる。

 

 すなわち遺伝しにより子が親の形質を受け継ぐことは事実であるが、

   そのような遺伝子を持つ親のところに生ずるということ自体が、

         過去世の業力による宿習なのである。

    あくまでも親子の生命は別々であって、親は縁にすぎない。

    ゆえに同じ親から生れた兄弟でも、性格・果報はそれぞれ異なる。

   縁は同一でも、過去世からのそれぞれの生命が異なるからにほかならない。

 

*三世の因果

  人の果報はさまざまである。

  生まれついて恵まれた福徳を持った人もいれば、

  一生病気・貧乏で苦しんだり、人に軽んじられたりする者もいる。

  これらの幸・不幸は偶然生ずるものではない。

      因なくして果はなく、果のあるところ必ず因がある。

 仏法はこの因果を、現世だけでなく三世にわたって説き切っている。

 

 大聖人は開目抄に
 「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。

      未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」
                ..................と御指南下されている。

  自分が過去にどんな事をしてきたかを知りたかったならば、現在受けている結果を見よ。

      また自分が将来どんな果報を得るかを知りたかったら、

   いま為しつつある所行を見よ――ということである。

  まことに因果は鎖の輪のごとくで、誰人もこの因果の理の外にあることはできない。

 

さらに開目抄には般泥おん経を引いて
  「善男子、過去に曾て無量の諸罪・種々の悪業を作る。

    是の諸の罪報は、或は軽易せられ、或は形状醜陋、衣服足らず、

   飲食そ疎、財を求むるに利あらず、貧賤の家・邪見の家に生れ、或は王難に遭い、

          及び余の種々の人間の苦報あらん。

              現世に軽く受くるは これ護法の功徳力に由るが故なり」と。

――善男子よ、過去世に無量の罪業・悪業を作れば、

  その罪の報いとして今生に、あるいは人に軽んじられたり、

  あるいは顔かたちが醜く生まれたり、着るものも着られなかったり、

  食べ物も思うようにならなかったり、お金を儲けようと思っても損ばかりしたり、

 貧賤の家や邪見の家に生れたり、あるいは権力によっていじめられたり、

  そのほかさまざまな人間としての苦しみを味うであろう。

   しかしそのような受くべき苦報を転じて現世に軽く受けるのは、

      実に正しい仏法を護持する功徳によるのである――と。

 

 

 

 

 

 

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