仏法の賞罰

 

  「」というと、人の悪行に対して仏が下す懲らしめや制裁のようにとられがちだが、

       そうではない。

     罰とは、法に背くことにより自ら招く不幸あるいは不利益のことである

      ゆえに法があれば、背けば必ず罰がある。

  そして、法には大小・浅深があるから、罰もそれに応じて大小・浅深がある。

 

   たとえば、国家の法律などは人為的な浅い法であるが背けばそれなりの報いがあり、

      また自然の摂理に反して不摂生をしたり、栄養が偏れば、病気を招く。

   また殺人・強盗等を犯せば、たとえ国法の網をのがれることはできても、

                   必ずその報いを得る。

      これらの罰は誰が与えたものでもなく、すべて自ら招いたものである。

     そして背く法が深くなるにしたがって、その反動たる罰も大きくなる。

 

 この道理を兄弟抄には
 

   「くぶしをもて虚空を打つはくぶし痛からず、石を打つはくぶし痛し。

          悪人を殺すは罪あさし、善人を殺すは罪ふかし。

  或は他人を殺すはくぶしをもって泥を打つがごとし、

      夫母を 殺すはくぶしもて石を打つがごとし。

  鹿をほうる犬は頭われず、師子を吠る犬は腸くさる。

   日月をのむ修羅は頭七分にわれ、仏を打ちし提婆は大地われて入りにき。

           所対によりて 罪の軽重はありけるなり」

 仏法はあらゆる法の中で最も深く根底の法である

 

  すなわち生命・生活の根本の法則、三世にわたる根底の生活法である。

    よって仏法に背けば、他のいかなる法に背くよりも大きな罰を受ける。

     そして“法は不知を許さず”という。

 意識するとしないとにかかわらず、知るとしらないとにかかわらず、

          仏法に背けば大罰を招くのである。

 では、仏法に背く罰はいかなるものか。

      仏法の利益が現当二世であるように、罰も現世と来世にわたる。

 聖人御難事に
     「始めは事なきやうにて、終にほろびざるは候はず」とお示しのように、

     たとえ始めは罰がないように見えても、ついには身を亡ぼし、

         死後には地獄の大苦を味うのである。

 これらの罰について大聖人は「総罰・別罰・顕罰・冥罰」の四種を挙げておられる。

 総罰とは、

   一国全体が総じて受ける罰、たとえば大聖人御在世の他国侵逼がこれである。

 別罰とは、各個々人が別して受ける罰。

 顕罰とは、誰の目にもはっきりとわかる罰、

     たとえば熱原法難において大進房・三位房が落馬して悶死し、

      平左衛門が一族ともに誅戮されたようなものである。

 冥罰とは、いつとはなしにじりじりと身を亡ぼす罰である。

 さらに死後の罰としては法華経譬喩品に
       「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。

                 乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」と説かれている。

   このように謗法の罰は現身に身を亡ぼし、後生には無間地獄に堕ちるのである。

 謹んで御本尊を拝見すれば、右の肩には

    「若悩乱者頭破七分」(若し悩乱する者は頭七分に破る)とあり、

 また左の肩には

     「有供養者福過十号」(供養すること有らん者は福十号に過ぐ)と書されている。

 この御文こそ、御本尊を誹謗する者には大罰があり、

      讃嘆する者には大利益のあることを、厳然と示し給うたものである。

 

     もし生命の永遠を知り三世の因果を知れば、

                  人として最も恐るべきは死後の堕獄である。

  地獄に堕ちることを恐れない者は、あたかも赤児が火の熱いことを知らず、

    水の冷たいことを知らぬのと同じ、ただ無智にすぎない。

     では、謗法による罪報とはどのようなものであろうか。

  法華経譬喩品には、

  法華経(末法においては三大秘法)を誹謗する者の三世にわたる因果を、

        次のように説いている。
  「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん。

――此の人の罪報を汝今復聴け。其の人命終して阿鼻獄に入らん。

  一劫を具足して、劫尽きなば更生まれん。是の如く展転して無数劫に至らん。

        地獄より出でては当に畜生 に堕つべし。   

  若し狗野干しては其の形こつ痩し、りたん疥癩にして人に触にょうせられ、

   又復人に悪み賤しまれん。

   常に飢渇に苦しんで、骨肉枯竭せん。生きては楚毒を受け、 死して瓦石を被らん。

      仏種を断ずるが故に、斯の罪報を受けん。

――若し人と為ることを得ては、諸根暗鈍にしてざ陋れん躄、盲聾背傴ならん。

       言説する所有らんに、人信受せじ。口の気常に臭く、鬼魅に著せられん。 

  貧窮下賤にして人に使われ、

     多病しょう痩にして依怙する所無く、人に親附すと雖も人意に在かじ。

 若し所得有らば、尋いで復忘失せん。

   若し医道を修め方に順じて病を治ば、更に他の疾を増し、或は復死を致さん。

   若し自ら病有らば人の救療すること無く、設い良薬を服すとも、而も復増劇せん。

   若しは他の返逆し、抄劫し窃盗せん。是の如き等の罪、横まに其の殃に羅らん」と。

     悪業・罪業にもいろいろある、人を殺す、盗む、騙すなども悪業ではあるが、

   悪の中の大悪、罪の中の大罪は謗法、

  すなわち末法においては日蓮大聖人を憎み、御本尊を誹謗することである。

  この謗法により、死して後、阿鼻獄(無間地獄)に堕ち、

 地獄の寿命終ってのちには畜生に生じ、

      また人間と生れてはさまざまな苦悩を味うことが、

       以上のごとくこの法華経譬喩品には説かれている。

 

*八大地獄

 大聖人は、顕謗法抄等に「八大地獄」のさまを、具体的な譬えを以てお説き下されてる。

   これを単なる比喩と思ってはいけない。

  この比喩は、死後の生命が堕獄した時に味う堪えがたき大苦を理解せしめるための

      直喩であれば、比喩即真実である。

以下簡単に説明する。

@等活地獄とは、

  大地の下一千由旬の所にある。この地獄の罪人は互いに害心をいき、

     鉄の爪で相手をつかみ裂き、骨だけを残すまで争う。

  あるいは獄卒に鉄杖で頭から足にいたるまで打ちくだかれ、身体が沙のようになる。

     しかし死んではまたよみがえり、くり返しこの苦を受ける。

A黒縄地獄とは、

   等活地獄の下にある。獄卒が罪人をとらえて熱鉄の地に押し伏せ、

       熱鉄の縄で身体に墨縄をうち、

     その線のとおりに熱した鉄の斧で切りさいたり削ったりる。

  あるいは山の上に鉄の縄をはり、その上を鉄山を背負って渡らせ、

   落ちれば身体が粉ごなになる。この苦しみは等活地獄の十倍といわれる。

B衆合地獄とは、

    黒縄地獄の下にある。獄卒が罪人をかり立て、山の間に入らせる。

 この時、両方の山が迫ってきて押しつぶし、身体は砕け血が大地に河のごとくに流れる。

  あるいは鉄の山が罪人の上に落ち、沙のように罪人を砕いたり、

   あるいは鉄の臼に罪人入れて鉄の杵でつくといわれる。

C叫喚地獄とは、

    衆合地獄の下にある。

   罪人たちが苦しみにたえかねて喚き叫ぶ声を発するので叫喚地獄といわれる。

     獄卒が鉄棒で頭を打ち、熱鉄の大地を走らせたり、

      熱鉄のあぶり台の上で罪人の身体を裏返しながらあぶる。

   あるいは煮えたぎった銅の湯を口を割って流しこむ。

      ために五臓が焼けただれて下に出るという。

さらに、D大叫喚地獄、E焦熱地獄、F大焦熱地獄と段々苦を増し、

八大地獄の最下が無間地獄(阿鼻地獄)である。

G無間地獄は大焦熱地獄の下にあり、縦横八万由旬である。

  この地獄の大苦悩は、前の七大地獄の一千倍といわれる。

    無間とは「ひまなし」ということで、堪えがたい苦痛が昼夜ひまなく襲うので、

       無間地獄という。

   しかし経文にはこの地獄の大苦はつぶさには説かれていない。

そのわけについては
  「若し仏、此の地獄の苦を具に説かせ給はば、人聴いて血をはいて死すべき故に、

           くわしく仏説き給はず」(顕謗法抄)......とまで仰せられている。

  この地獄に堕ちる業因は五逆と謗法に限られる。

五逆罪とは、

  父を殺し、母を殺し、仏弟子を殺し、仏の身から血を出し、

    正しい仏道修行をしている団体の和合を破る、の五つである。

    同じ殺人でも、他人を殺す罪では無間地獄には堕ちない。

     無間地獄の寿命は一中劫とされている。

  一中劫とは約三億二千万年に相当する。

   このような長い年月の間この地獄にあって出られないとは、

       その大苦悩まさに想像を絶しよう。

  ただし、一中劫というのは五逆罪を原因とした者に限る。

   もし三大秘法を誹謗して無間に堕した者は、

      譬喩品に説かれるごとく「展転して無数劫に至らん」となる。

    恐るべきは謗法の罪科ではないか。

以上、八大地獄について簡単に説明したが、

   この地獄の大苦にくらぶれば、現世におけるあらゆる苦などは物の数ではない。

 

* 臨終の証拠

  では、死後の堕獄とか成仏は、何によって知ることができるのであろうか。

      現世にその証拠がなければ、死後のことは誰人も信じられない。

  仏法は空理空論ではない。すべて証拠を以て論ずる。

    ――その証拠とは、すなわち臨終の相である。

    臨終は現世の終り、そして未来への出発の一刹那である。

     この臨終の相に、その人が死後の未来に受けるべき果報が、前以てあらわれる。

  この法則性を説き切った教えは、仏法以外には断じてない。

  仏が三世を見通す智恵をお持ちであることは、この事からもはっきりとわかる。

堕獄の相・成仏の相

この法則性について大聖人は
  「先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、

   一代聖教の論師・人師の書釈あらあら勘へあつめて、

  此を明鏡として一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向へてみ候へば、

   少しもくもりなし。此の人は地獄に堕ち給う、乃至人・天とは見へて候」

                        (妙法尼御前御返事)と仰せられている。

    それでは具体的に地獄の相、あるいは成仏の相とはどのようなものか。

 神国王御書には、

  邪法・真言宗の元祖の善無畏三蔵が地獄に堕ちた証拠として
  「善無畏三蔵は―死する時は『黒皮隠々として骨甚だ露焉』と申して、

     無間地獄の前相を其の死骨に顕わし給いぬ。

   人死して後ち色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教に定むる所なり」と。

さらに千日尼御前御返事には
  「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、
其の身重き事千引の石の如し

    善人は設い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、

  臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、やわらかなる事兜羅綿の如しと。

  御指南は克明である。

  地獄に堕ちる者は臨終ののちに、身体全体の皮膚の色が黒くなるうえ、

     不思議に遺体が重くなる。

  いっぽう成仏する者は、死してのち色が白くなり、その遺体は軽く、

     かつ柔かであると仰せられる。

    およそ臨終だけは、人の意志のおよぶところではない。

  しかるに、この臨終の法則性をかくのごとく説き切る仏法の凄さ、

  仏智の偉大さには、驚嘆のほかはない。

  もし仏法で説く三世の生命が空論であるならば、

  どうして臨終にこのような現証、法則性があらわれようか。

   ===臨終の善悪は仏法の邪正による===
 

 

 

 

 

 

 

 

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