仏法の実践


 

 

成仏への実践法

 仏様の大慈悲は、御自身が得られたこの成仏の境界に、

  なんとかして一切衆生を導き入れんとするところにある。

その方法とはどのようなものか。哲学的な思索によって悟りを得ることであろうか。

  智恵は浅く三毒は強い末法の大衆が、観念思惟の力で悟りなど得られるわけもない。

 

ここに日蓮大聖人は大慈悲を起こし、

  御自身が覚られた生命の極理・一念三千を、文字を以って一幅の御本尊に顕わし、

    一切衆生に授与し給うたのである。

  「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起こし、

   五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」(観心本尊抄)
                             ..........................との仰せはこのことである。

 末法の我ら凡夫は、ただこの御本尊を信じ「南無妙法蓮華経」と唱えれば

  たとえ智恵はなくとも、その意味合いはわからなくても、

   御本尊の仏力・法力により自ずと生命の極理を知るに当り、

     自然と成仏の幸福境界を得ることができるのである。

  たとえば、赤児が母乳の栄養を知らなくとも飲めば自然と成長し、

  病人が名医の薬の成分を知らずとも服せば病を治するのと同じである。

 実に、御本尊こそ日蓮大聖人の大慈悲の結晶である。

  まさに有智・無智をえらばず、

   御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えることなら、誰人にもできる。

   この信心口唱の法術こそ、

   末法の御本仏が全人類に教えて下さった成仏への実践法である。

 

ゆえに報恩抄には
 「日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に、人ごとに有智・無智をきらはず、

    一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」
                           ..............と仰せられている。

 

 仏界が湧現

 御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えると、どうして幸せになるのであろうか。

   一言にして云えば、我ら凡夫の生命に仏界が湧現するからにほかならない。

 私たちの生命には「十界互具」といって、

    地獄界から仏界に至るまでの十界が、素質として誰にも具っている。

そしてこの十界は、外界の縁にふれて、その中のどれか一つが現われる。

  たとえば脅迫状を見て恐怖を感ずるのは、

    地獄の縁にふれて地獄界が現われるのである。

 同じように、餓鬼の縁にふれれば餓鬼界が現われる。

  では、仏界を現ずる縁とは何かといえば、それが御本尊である。

 御本尊は文字を以て顕わされた仏様の御生命である。

   決して単なる文字ではない、文字の全体がそのまま日蓮大聖人の御生命なのである。

 

ゆえに大聖人は
 「日蓮が魂を墨にそめながして書きて候ぞ、信じさせ給へ。

    ―日蓮が魂は南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事)
                                   ..................と仰せられている。

また日寛上人は
  「御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。

    謹んで文字および木画と謂うことなかれ」(観心本尊抄文段)
                             ........................と御指南されている。

 

 まさに御本尊は御本仏大聖人の生命そのものなのである。

 いま、この御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えるならば、

     仏界たる御本尊を縁として、我ら凡夫の生命にも仏界が湧現する。

  仏界が湧現すれば生命力は強くなり、また諸天善神はその人を守護するようになる。

もし生命力が強くなれば、

  いかなる人生の苦難も自ら乗り越えることができ、また諸天善神が守護すれば、

    環境がその人を守る働きに変わってくる。よって幸せになるのである。

 

 信心口唱によって仏界が湧現するということを、大聖人の御指南に拝してみよう。

 「但一向に南無妙法蓮華経と唱へさすべし、名は必ず体にいたる徳あり」(十章抄)

  私たちの唱え奉る題目は、御本尊の名前である。

   名を唱え奉ることにより、体である御本尊に通じ、

              我が生命に仏界が湧現するのである。

 「口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性もよばれて必ず顕われ給う」(法華初心成仏抄)

また
 「南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給う。

    始めはしらねども、漸く月重なれば心の仏夢に見え、悦ばしき心漸く出来し候べし」

                                    (松野殿女房御返事)

―南無妙法蓮華経と、御本尊を信じ唱えれば、

    凡夫の心に釈迦仏(本因妙の釈迦仏すなわち日蓮大聖人)が宿る。

 始めはそのことがよくわからないが、自覚できるにつれ、歓喜の心が湧いてくる――と。

 

さらに日女御前御返事には
 「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ、

  只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」

――この御本尊を、自分を離れたよそにあると思ってはいけない。

  ただ我ら御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱える者の、

       胸の中の肉団に、御本尊はおわしますのである――と。

 すなわち信心口唱により、御本尊が我が身に住する、

  我が身が御本尊と一体になると仰せられる。

    なんと有難いことではないか。即身成仏とはこれである。

 

  現当二世の大利益

 この信心をする者は必ず成仏する。

成仏する証拠として、まず現世において宿命が変わって幸せになる。

 そして臨終には成仏の相を顕わし、死後の生命も守られ、

   さらに少々世々三大秘法と離れることなく大福徳の人と生れる。

 このように現世の幸せだけでなく、死後の未来も救われることを

   「現世安穏・後生善処」という。

 

   成仏という永遠に崩れぬ幸福境界”とは、

  この現当二世(現世と来世)にわたる大利益いうのである。

仏法を中途半端に理解している者が、

 よくしたり顔して現世の利益を否定するのを耳にするが、とんでもないことである。

  現世に功徳がない仏法が、どうして後生の救いとなるだろうか。

  力ある日蓮大聖人の仏法は、現当二世の利益を必ず頂くのである。

 

 “現世に幸せになる”ということについて、大聖人は上野殿に次のように仰せられている。

 「『亦、現世に於いて其の福報を得ん』の勅宣、

  『当に今世に於いて現の果報を得べし』の鳳詔、

   南条の七郎殿にかぎりてむなしかるべしや。

    ――現世に大果報をまねかん事疑いあるべからず」(南条殿御返事)と。

 

また撰時抄には
 「 亦於現世得其福報の八字、当於今世得現果報の八字、

   已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば、

   如来の金言は提婆が虚言に同じく、多宝の証明は倶伽梨が妄語に異ならじ、

 ――されば我が弟子等、

   心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して、此の度仏法を心みよ」
              とまで仰せられている。さらに

 「法華経の行者は、信心に退転なく身に詐りの親み無く、

  一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず、

  今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」

                                     (祈祷経送状)と。

 大聖人の仰せのままに強き信心に立つ者には、

  後生だけではなく、今生にも宿命転換し必ず大果報を得るのである。

 

また日女御前御返事には、現世の幸福、死後の守護について
  「かかる御本尊を供養し奉り給ふ女人、

  現在には幸をまねき、後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて、

   闇に燈の如く、険難の処に強力を得たるが如く、

    彼こへまはり、此へより、日女御前をかこみまほり給うべきなり」と。

以て、現当二世にわたる大利益を確信すべきである。
    

 * 勤行と折伏

 末法の仏道修行は勤行と折伏に尽きる。

 勤行とは、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱える三大秘法の修行であり、

  そしてこの三大秘法を人に勧めるのが折伏である。

   勤行は自分自身の修行であるから「自行」といい、

        折伏は他人を教化し救う修行であるから「化他」という。

 

末法、ことに広宣流布以前の謗法充満の世においては、

   自行と化他が車の両輪のごとく相俟って、始めて完璧なる仏法の実践となる。

  すなわち自分が御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えるだけでなく、

   人にも御本尊の功徳を教え信心を勧めていくことが、

           大聖人の仰せのままの正しい仏道修行である。

 

 大聖人は自行化他にわたる仏法の実践について
 「南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」         

                                        (持妙法華問答抄)

  「我もいたし、人をも教化候へ」(諸法実相抄)

  「唯我れ信ずるのみに非ず、また他の誤りを誡めんのみ」(立正安国論)

  「末法に入って今日蓮が唱うる所の題目は前代に異なり、

      自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法抄)等と御指南下されている。

 

 対境の御本尊について

さて、日寛上人が「此の本尊」と仰せられた御本尊とは、

   別して、大聖人が弘安二年十月十二日に御図顕あそばされた

     「本門戒壇の大御本尊」の御事である。

この大御本尊は、日本および世界の全人類に総じて授与された御本尊で、

   広宣流布の暁には本門戒壇に安置さるべき御本尊なるゆえに、

    「本門戒壇の大御本尊」と申し上げる。

 

大聖人が御在世に書き顕わされた御本尊は数多にのぼるが、

  それらの悉くは「一機一縁」といって、信心強盛の個人に授与された御本尊である。

    ここに、全世界の人々に総じて授与された御本尊は、

     ただこの弘安二年の戒壇の大御本尊一幅である。

    この大御本尊こそ三大秘法の随一、大聖人出世の本懐であられる。

 

 ゆえに大聖人滅後においては、

この戒壇の大御本尊を御本仏日蓮大聖人の御当体、

      唯一の帰命依止の法体と仰ぎまいらせねばならない。

 この戒壇の大御本尊は弘安五年に大聖人より日興上人に御付嘱され、

     以来日目上人・日道上人・日行上人と次第に相伝護持され、

   いま広宣流布の時を待って冨士大石寺にまします。

 私達が勤行の時、信じ唱えまいらせるところの対境・法体とは、

    実にこの戒壇の大御本尊にてましますのである。

 

 冨士大石寺門流においては、

   入信者の信行が進んで不退の金剛信が確認された時

 日興上人以来嫡々付法の大石寺歴代上人が、

     この戒壇の大御本尊を書写して授与して下さる。

  授与された弟子・信徒は、その書写された本尊を即戒壇の大御本尊と拝して、

           日夜勤行に励むのである。

 

 ただし、本宗における御本尊の授与は極めて厳格で、

   入信早々に授与されるということは絶対になく、

    身命も惜しまぬ信心が確立してのち、始めて授与されるのである。

 

したがって、御本尊を頂戴するまでは、

   すべての人が、我が家より遠く戒壇の大御本尊を遥拝し奉って勤行申し上げる、

       いわゆる「遥拝勤行」がまず信心の出発となる。

 これが本宗伝統の厳格なる風儀である。

 

ゆえに、あの熱原の法華講衆にしても、

  入信未だ日も浅く、したがって未だ御本尊を頂戴せぬまま、

    遥拝勤行に徹してあの不惜身命の大仏事を成しとげられたのである。

 

 遥拝勤行の心構え

 遥拝勤行と、御本尊の御前で行う勤行とは、功徳において全く同じである。

   遥拝勤行において大切なことは、

  我が家と冨士大石寺にまします戒壇の大御本尊と、いかに距離があろうとも、

  信心でその隔たりを乗りこえ、眼前に御本尊ましますの信心があれば、

      千万里を隔てるとも直ちに御本尊と感応道交して、

     我が生命に仏界が湧現するのである。

 

ゆえに大聖人は、身延より千里を隔てた佐渡に住する千日尼に対し
   「譬えば、天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮かび、

   雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾にきこゆ。

     御身は佐渡の国にをはせども、心は此の国に来れり。

――御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」(千日尼御前御返事)
と御指南下されている。

まことに大聖人の御心に通じ通ぜぬは、その人の信心による。

  距離は全く関係ないのである。

かくのごとく三宝の御恩徳を念じて、御報恩し奉るのである。

 

 以上の勤行を朝晩怠けずに行うことにより、

  過去背からの謗法等の罪業で覆われた汚れた生命が、

    仏界を湧現する清らかな生命へと磨かれていくのである。

 

ゆえに大聖人は
 「深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、

    只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云うなり」(一生成仏抄)

と仰せられている。

 私達凡夫は、生活の苦しい時には苦しさに流されて勤行を忘れ、

  また楽になればなったで勤行にゆるみを生ずることがあるが、

     大聖人は次のごとく御指南下されている。

 「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、

    苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給へ、

              これあに自受法楽にあらずや」(四条金吾殿御返事)

 また
 「世の中憂からん時も、今生の苦さへ悲しし、

  況や来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、

  悦ばしからん時も、今生の悦びは夢の中の夢、

  霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思し食し合せて又南無妙法蓮華経と唱ヘ、

   退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ」(松野殿御返事)と。

 この御指南のごとく、苦しい時も、楽しい時も、

   苦楽を乗り越えて勤行に励むところに一生成仏がある。
 

  折伏とは何か

 仏法を弘める方法に「摂受」「折伏」という二大潮流がある。

 摂受とは摂引容受といって、

    たとえ相手が低劣なる法を信じていても、これを容認しながら

      次第に正しい教えに誘引していくという柔かい弘教法である。

 いっぽう折伏とは、破折屈伏の義で、相手の間違った思想・信仰を破折し、

     唯一の正法に帰依せしめるという剛い弘教法である。

 

 どういう時に摂受を行じ、どういう時に折伏を行ずべきかということは

   仏法上の重大問題で、もしこれを取り違えると、

      成仏得道も叶わないと、大聖人は仰せられている。

 「凡そ仏法を修行せん者は摂折二門を知るべきなり、一切の経論此の二を出でざるなり」

                                              (如説修行抄)
 「設い山林にまじわって一念三千の観をこらすとも、

   ――時期をしらず摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき」(開目抄)

 「仏法は摂折・折伏時によるべし、譬えば世間の文・武二道の如し」(佐渡御書)

 「修行に摂折あり、摂受の時折伏を行ずるも非なり、折伏の時摂受を行ずるも失なり、

   然るに今の世は摂受の時か折伏の時か、先づ是れを知るべし」(聖愚問答抄)と。

 

 では、どういう時に摂受を行じ、どういう時に折伏を行ずるのかといえば、

 釈迦仏法の利益のおよぶ正像二千年間(釈迦滅後二千年の間)は摂受であり、

         それ以後の末法という時代は折伏でなければいけない。

 

 なぜかといえば、正像二千年の間に生まれてくる大衆は「本已有善」といって、

  過去世にすでに下種を受けている者ばかりなので、

 あるいは小乗経を縁とし、あるいは権大乗経を縁として法華経の悟りに入ることが出来た。

   ゆえに種々の教えを一応認め、

  漸々と正法に誘引する摂受が、正像の時期には適していたのである。

 

 しかし正像二千年を過ぎて末法という時代になると、

  生まれてくる衆生は「本未有善」といって、

  未だ過去に下種を受けたことのない三毒強盛の荒凡夫ばかりとなる。

 この本未有善の衆生は、新たに下種を受けなければ成仏できない。

  ゆえに末法における成仏の正法はただ法華経本門寿量品の文底に秘沈された

         下種の三大秘法だけとなる。

 この時、一切の諸宗・諸経は利益を失うばかりか、

  唯一の成仏の法たる三大秘法に背く謗法の邪宗となってしまう。

          ゆえに末法においては、

  これら邪宗を破折し"この御本尊以外には成仏の法はない"と

  はっきりと教える以外に人は救えない。これが末法の折伏である。

 

 このように折伏こそ末法の時に適う仏道修行であり、

  人を救う最高の慈悲の行為なので ある。

 折伏は何のために行ずるのかといえば、

 一.には一切衆生を救う広宣流布のため、

 二.には自身の成仏のためである。

 

   大聖人がいかに大慈悲を以て三大秘法をお勧め下されたかを拝してみよう。
 「日蓮生れし時よりいまに、一日片時も心安き事はなし。

    此の法華経の題目を弘めんと   思うばかりなり」(上野殿御返事)

 「今日日蓮は、去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安三年十二月にいたるまで

        二十八年が間又他事なし、

 只妙法蓮華経七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。

     此れ即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(諌暁八幡抄)

 まことに母が乳児に乳を含ませるごとき大慈悲を以て、

   「南無妙法蓮華経と唱えよ」と、一切大衆にお勧め下されたのである。

 

        そして大聖人の究極の大願は広宣流布にある。

 「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、

  二人・三人・百人と次第に唱へ つたふるなり。

 未来も又しかるべし、是れあに地湧の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は、

 日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は、大地を的とするなるべし」(諸法実相抄)と。

 大聖人がただ御一人唱え始められた三大秘法の南無妙法蓮華経は、

  次第に唱え伝えられ、ついには日本一同に唱える広宣流布の時が必ず来る

    との御断言である。

  いま我々の行ずる折伏は、大聖人のこの広布の大願を、

    御本仏の眷属としてお手伝いするものである。

 この広宣流布が達成された時、始めて仏国は実現し、個人も国家も真の安泰を得る。

 

このことについて大聖人は
 「法華折伏・破権門理の金言なれば、

  終に権経・権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、

    天下万民・諸乗一仏乗と成りて妙法独り繁昌せん時、

 万民一同に 南無妙法蓮華経と唱え奉らば、

  吹く風枝をならさず、雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて、

  今生には不祥の災難を払い、長生の術を得、

   人法共に不老不死の理顕われん時を各々御覧ぜよ。

        現世安穏の証文疑い有るべからざる者なり」(如説修行抄)と仰せられている。

 しかし広宣流布しなければ、国土の三災七難はいよいよ激しくなり、

    人はことごとく悪道に堕する。

  ここに御本仏の厳たる広宣流布の御命令があり、

 

また日興上人の

「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべき事」御遺誡がある。

 いま三大秘法に背くゆえに刻々と破局近づく日本を見る時、

   仏弟子として誰か折伏に立たぬ者があろうか。

 

 自身の成仏のため

 折伏は人のため国のためのように思えるが、

      実は自分自身の成仏の修行である。

 広宣流布以前においては、勤行とともに、

    折伏の大精神を持ち続けなければ成仏が叶わない。

 そのわけは、謗法充満の国土においてもし折伏を行じなければ、

  知らず知らずのうちに自身が謗法のリズムに同化してしまうのである。

   これを「与同罪」という。

すなわち自分は謗法をしなくても、謗法を見てそれを責める心がなければ、

  その悪に与したことになって罪は同じになる。

 

 「譬えば、我は謀叛を発さねども、謀叛の者を知りて国主にも申さねば、

   与同罪は彼の謀叛の者の如し」(秋元御書)と。

 

 ゆえに曽谷抄には
 「謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、

    水の中に火を尋ぬるが如くなるべし、はかなし、はかなし」
 とまでの厳しい仰せを拝するのである。

 しかし折伏を行ずれば、この与同罪を免れることができる。

  そして蓮華が泥水の中できれいな花を咲かせるように、

   謗法充満の国土においても少しも謗法に染まることなく、

           清浄な仏果を得ることができるのである。

 

 折伏の大利益

折伏は、大聖人の大願たる広宣流布をお手伝いする行為であるから、

  これを行ずる者は次のごとき大利益がある。

 折伏を行ずると、御本仏の冥々の加護が生活に現われてくる。

これは、大聖人が格別に"仏法の命を継ぐ者"として御守護下さるからである。

 

 御在世において、大聖人の御化導を助けまいらせた四条殿に対し大聖人は
 「殿の御事をば、ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。

    其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思うなり」(四条金吾殿御返事)
              ..................... と仰せられている。

  いま広布の前夜・濁悪の世に、けなげに折伏を行ずる者は、

     かくのごとく御本仏の格別の御守護を頂くのである。

 

 御本仏の眷属としての生命力が湧く

 折伏を行ずる者は仏の使いである。

   ゆえに自然と御本仏の眷属としての生命力が湧いてくる。

  さまざまな折伏の功徳の中でも、このことが最もはっきりとわかる。

 たとえ、打ち沈んだ弱々しい境界であっても、折伏を行ずると、

  生き生きとしてくるのである、そして人を救うに当って、智恵と勇気が具わってくる。

  いままで自分のことだけで頭がいっぱいの愚痴の凡夫が、

   このように人を救い国を憂うる境界に一変するのは、

       まさに御本仏の眷属としての命が湧いてきたゆえである。

 

 諸法実相抄には
 「日蓮と同意ならば、地湧の菩薩たらんか」   と仰せられている。

  大聖人に同心し奉るゆえに「地湧の菩薩」

    すなわち御本仏の眷族の命が出てくるのである。

 

 過去の罪障が消滅する

 折伏は宿命転換の強き実践法である。

   およそ現世の不幸はすべて過去世の悪業に因る。

 この宿業の報いとして、あるいは十年・二十年、あるいは一生の間苦しまなければならぬ、

 いや、あるいは今生にその罪を滅することができずに

     未来にも大苦を受けねばならぬかも知れない。

   しかし折伏して難を受けたり悪口をいわれれば、その罪障が消滅するのである。

 

 「忠言は耳に逆う」という。

    ふだん人格者のような顔をしている者も、

 折伏を受けるととたんに本性をむき出し瞋恚を表すことはよくある。

   あるいは「お前は貧乏しているくせになんだ、

  もっと立派になったら来い」などと、いわれなき軽賤をする者もあろう。

   しかしこれらの悪口を受けることによって、こちらの罪障は消えていくのである。

   この原理を深く心腑に染めなければならない。

 

 大聖人は開目抄に
 「今日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来るは、

   過去の重罪の今生の護法  に招き出せるなるべし。」
 
                     ................と仰せられている。

すなわち、一国の謗法を折伏した結果として流罪・死罪の大難が起きたことは、

  過去世の重き罪障が、折伏の功徳により、

   いま招き出され消滅している姿である。―との御意である。

大聖人に過去の罪障などのあるべきはずもない。

  これは「示同凡夫」といって、我等凡夫の身に同じて、

      罪障消滅の原理をお示し下さっているのである。

 

 いま私達も、折伏しなければ波風も起きない、悪口もいわれない。

  しかし折伏のゆえに起きた難こそ、我が身の罪障消滅となるのである。

    むしろ喜びとしなければならない。

 

 また末法の大衆は貧・瞋・癡の三毒が強く、正法を素直に聞く者は少ない。

  小さな親切なら誰にもすぐ理解され感謝されもするが、

  人を根本から救う大慈悲は、かえって理解され難いのである。

    理解されないどころか時には悪口・罵詈されることすらある。

      ゆえに忍耐の心がなければ、末法の大衆を救うことはできない。

 

 釈尊は末法に三大秘法を弘通する上行菩薩の徳を称えて

「其の志念堅固にして、大忍辱力あり」と述べているが、

大聖人の忍難の御振舞いを拝せば、まさに経文のごとくである。
 「此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆う道理なるが故に、

   流罪せられ命にも及びしなり。  然ども、いまだこりず候」(曽谷殿御返事)

 「日蓮一度もしりぞく心なし」(辨殿尼御前御書)

 「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、

   難を忍び慈悲のすぐれたる事は、をそれをもいだきぬべし」(開目抄)と。

 

 大聖人がこのように大忍辱力を以て難を忍ばれたのは、ひとえに大慈悲のゆえである。

    いま私達は慈悲においては御本仏の千万分の一にも及ばないが、

  大聖人への忠誠心のゆえに、またよく耐え忍ぶ強い心が湧いてくるのである。

 

 ただし、仏法をあなずる者に対しては、

       師子王の気魄を以てその驕慢を打ち砕かねばならぬ。

  また仏法の邪正を決する法論等においては、

「法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し鬼畜なんどと下しても、

   其の過有らんやと意得て宗論すべし」(教行証御書)  との仰せのままに、

 大声叱咤して邪正を破折する気魄を持たねばならない。

 

    折伏には徒労ということがない、

  相手が素直に入信すればこれほどの喜びはないが、たとえ反対しようとも、

  逆縁下種といって、相手の生命にはすでに仏種が下されたことになり、

    いつかは正法にめざめて成仏するのである。
 「当世の人、何となくとも法華経に背く失に依りて地獄に堕ちん事疑なき故に、

        とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。

 信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は 毒鼓の縁となって仏になるべきなり」

                                        (法華初心成仏抄)と。

 

  三障四魔に打ち勝つ信心

 仏法を実践し成仏を願う者にとって、よくよく心せねばならぬことがある。

   それは"正法には必ず魔の妨害がある"ということである。

 本来この大宇宙には、仏法を妨げようとする魔の生命活動がある。

  ゆえにもし人が正法を修行して、まさに成仏せんとする時、

       必ず魔が障碍をなして仏道修行を阻むのである。

 大聖人はこの魔障について次のごとく仰せられている。
 「此の法門を申すには必ず魔出来すべし、
魔競はずば正法と知るべからず。

  第五の巻に云く、

  『行解既に勤ぬれば三障四魔紛然として競い起る、

   乃至随うべからず、畏るべからず之に随えば人をして悪道に向わしむ、

             之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云々。

   此の釈は日蓮が身に当るのみならず、門家の明鏡なり、

      謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(兄弟抄)と。

 この御文を拝すれば、末法に成仏の法たる三大秘法を持ち、

  大聖人の仰せのままに自行化他の信心に励むならば、

      必ず三障四魔が競い起るということがわかるであろう。

 そしてこの三障四魔に打ち勝った時、始めて成仏が叶う。

       これが仏道修行の定理なのである。

 

 三障とは煩悩障・業障・報障である。

煩悩障とは、我が心の中の貧・瞋・癡により、信心に迷いを生ずる障りである。

業障とは、家庭内の問題で信心が妨げられること。

報障とは、自分の生活を左右できる権力ある者が信心を妨害することである。

  四魔の中の天子魔もこれと同じで、この報障こそ最も大きな障碍である。

 さて、この三障四魔が競い起こるということは、

 持つ法が正法であり、また仏法の実践が本物になってきたという証拠、

 またこれを乗りこえれば成仏が叶うということを示すものであるから、

     むしろ喜ばねばならない。

 「潮の干ると満つと、月の出づると入ると、夏と秋と、

   冬と春との境には、必ず相違する事あり。

  凡夫の仏になる、又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば、

   賢者はよろこび、愚者は退くこれなり」(兵衛志殿御返事)と。

 賢者は三障四魔の出来をむしろ喜び、愚者はこれによって退転すると仰せられている。

    されば仏法を実践する者は、魔を魔と見破る見識を持たねばならぬ。

 

 これを見破って一段と強き信心に立つ時、

       始めて魔障に打ち勝ち成仏の境界を得るのである。

 そして、魔に打ち勝って自身を顧みれば、魔障が競い起きたことにより、

  かえって我が境界を変えることが出来たことに気付くであろう。

         もし魔障がなければ成長もない。

  信心さえ強ければ、魔はかえって成仏の助けとなるのである。

 

この原理を法華経には
 「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」(授記品)と説き

さらに大聖人は御自身の実証体験の上から
 「人をよく成すものは、方人よりも強敵が人をばよくなしけるなり。

 ――日蓮が仏にならん第一の方人は影信、

 法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、

         争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(種々御振舞御書)

 と御指南下されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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