正系日蓮大聖人の仏法


 

 

 

 

 


 日興上人と富士の法礎


 第二祖・白蓮阿闍梨日興上人は、御本仏日蓮大聖人の仏法を、

  末法万年に清く正しくお伝え下さるために出現せられた御方である。

 

 入門より三年目に、伊豆流罪の法難が起きた。

  十六歳の上人は大聖人の御共をして給仕の赤誠をつくし、

  そのかたわら附近を折伏され、熱海の真言僧・金剛院行満を帰伏せしめている。

 

 また佐渡御流罪のおりには、

   門下の中でただ一人大聖人の御共を申し上げて佐渡にわたり、

   飢えと寒さと殺害の危険うずまく中、身命を賭して大聖人を御守護申し上げた。

      そして御給仕のいとまを見ては、佐渡中を折伏せられた。

 

 大聖人の身延御入山後における日興上人の大法弘通はめざましく、

   その結果ついに門下が受けた最大の法難といわれる熱原の大法難が、

        富士南麓で巻き起こった。

   このような大法難を起こすほどの弘通は、他の門弟には全く見られない。

 そしてこの法難の総大将として、日興上人の執られた不惜身命の指揮ぶりは、

     すべて大聖人の御意に叶うものであった。

 

 このように、常随給仕といい大法弘通といい、

     日興上人の徳は門下の中で抜きん出ておられた。

 ゆえに日寛上人は
      「智は先師に等しく、徳は諸弟に超えたり」...........と仰せられている。

 一体不二の御境界

 

 また不思議な事蹟がある。

   日興上人は水に映る大聖人の御影に

      「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」の御本尊を見奉り、

   それをそのまま文永五年十月十三日に書き顕わしておられる。

  この御本尊は現在仙台の仏眼寺に所蔵されているが、

  御判形だけが大聖人の御直筆で、

  あとはすべて日興上人の御筆という不思議な御本尊である。

 大聖人はこのことを「本尊七箇之相承」に


   「日興は浪の上に婆れて見われ給いつる処の本尊の御形なりしをば、

      能く能く似せ奉るなり」  と仰せられているが、

  文永五年といえば日興上人わずか二十三歳、

 しかしこの時すでに上人は、大聖人の御内証を深く知り奉っておられたのである。

      まさに大聖人と一体不二の御境界と拝し奉るほかはない。

 

 

  弘安五年九月、大聖人は滅後の大導師として日興上人を選び、

  三大秘法を付嘱し給うた。その証が次の「一期弘法付嘱書」である。

 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。

 国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。

 時を待つべきのみ。

 事の戒法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

    弘安五年壬午九月 日                          日蓮 在御判

                                    血脈の次第 日蓮 日興

  また重ねて十月十三日、大聖人は日興上人に身延山久遠寺の貫主職を付嘱された。

いわゆる「身延山付嘱書」である。

  釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。

 背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。

    弘安五年壬午十月十三日

                                 武州池上

                                        日蓮 在御判

 

  前の「一期弘法付嘱書」と、この「身延山付嘱書」を二箇の相承という。

   弘安五年十月十三日、大聖人は安祥として非滅の滅を現じ給うた。

 葬送の一切をおえられた日興上人は、大聖人の御灰骨を奉持して身延山に帰山せられ、

 本門弘通の大導師として一山の経営に、広布の推進に、日夜脳をくだき給うた。


 

 五老僧の師敵対

 大聖人は御入滅にさきだち、日興上人への唯授一人の血脈相承とは別に、

 日興上人を含む門下の法将六人を本弟子(直接の弟子)と定められている。

  すなわち日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六人、いわゆる六老僧である。

 

 日興上人は門下の高弟の義務として、

   大聖人の墓所を守るべき輪番の制度を、この五人の老僧と相計って制定された。

   しかし五老僧は身延で奉修された百ヶ日法要以後は、

  遠国のためもあってか登山せず、すべてを日興上人に託し輪番を怠けるようになった。

 日興上人と疎遠になるに随い、五老僧の信心は次第に逸脱していった。

 

    五老僧はもともと日興上人のごとく常随給仕の功もなく、

  不惜身命の決意も甘く、未だ大聖人の仏法の奥底に達していなかったのである。

     したがって時がたつにつれ、日興上人の富士門流と、

  鎌倉方と呼ばれる五老僧の間は、天地のごとき法義上の差異が生じてきた。

 その主なものを挙げれば

一、 日興上人は大聖人御図顕の妙法五字の大曼荼羅を本尊とせられたのに対し、

   五人は釈迦の仏像を本尊と崇めた。

二、 日興上人は「日蓮大聖人の弟子」と名乗って本門の三大秘法を弘通せられたのに

   対し、五人は「天台沙門・日昭」等と名乗り、大聖人の仏法を「天台の余流」といった。

三、 日興上人は立正安国論の御趣旨に基づいて神社参詣を禁じられたが

   五人は神社参詣を許した

四、 日興上人は大聖人の御書を御本仏の直接の御教えとして尊重せられたが、

   五人は御書を軽んじ、すきかえしたり、あるいは焼くなどした。

 五、 日興上人は勤行において、大聖人のあそばしたごとく方便・寿量の両品を助行とし

   唱題を正行とせられたが、五人は如法経・一日経といって、法華経二十八品を

   書写したり読誦するなど、摂受の行をおこなった。

―等々である。まさに五老僧は法難を恐れる臆病のゆえに、

 また大聖人の仏法の奥底を知らぬゆえに、日興上人と疎遠になるに及んで、

  たちまちに本師・大聖人に背いてしまったのである。

    **** 邪宗化日蓮宗は、ほとんどこの五老僧の流れである ****


 

 身延離山

 さて、大聖人御滅後三年目の弘安八年三月、

   五老の一人民部日向が突然身延に登山してきた。

  それまで、鎌倉方の諸老僧が大聖人の御墓を守らぬ不知恩を嘆き

  再三登山を促がされたいた日興上人は、これを見て大いに悦ばれた。

     日向は日興上人に伏し、身延に住することになった。

 大聖人の直弟である五老の一が、ともかく正信に立ち還ったことは、一門の喜びである。

 この年の秋、日興上人は一分の不審を胸に懐かれつつも、日向を学頭に任命された。

 だが、一年・二年と経つうちに、

  民部日向は身延の地頭・波木井実長(日円入道)に取り入るようになったのである。

    日向は世才家で名利の心が深かった。

  ゆえに席の暖まるにつれ、地頭にへつらい、その心をたぶらかしていったのであった。

    実長は日興上人の教化によって入信している。

 したがって大聖人・日興上人には情の面で信伏していたが、

    性来が我が儘で傲慢のふうがあり、法義には全く暗かった。

 

 日向の甘言により、地頭の信心は次第に狂っていった。

  厳格な日興上人を敬遠し、数々の謗法を犯すようになった。

 その謗法とは、次のようなものである。

一、 釈迦仏の立像を造立して、本尊としようとした。

二、 大聖人が身延御在住九ヶ年の間禁止されていた神社参詣を始めた。

三、 領内に念仏の塔、また念仏の道場を建立するなど、謗法への施を行った。


 これらの謗法は、すべて民部日向が許し、あるいは教唆したものである。

   日興上人はこの不法の学頭の擯出を決意されると共に、

 地頭の謗法を再三再四厳しく誡め給うた。

しかし日向と心を合わせた実長は、ついに
    「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」(原殿御返事)とまで放言するに至った。

 ここに、清浄の地であった身延山は、謗法汚濁の地となったのである。

 かかる汚濁の地に、大聖人の御法魂たる「本門戒壇の大御本尊」を

     居しまいらせることは、聖意に背くことになる。

 大聖人も兼ねて波木井実長の信心を見抜かれ
        「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由」(美作房御返事)

 の御遺言を日興上人に下されていた。

 

  ここに日興上人は、身延山離山の重大決意を堅め給うたのである。

 しかし、波木井一族の中にも、実長の子息等は清信に住し、

  日興上人への絶対帰依を誓っていた。

  これら清信の士の懇望を斥け、かつ大聖人より付嘱を受けた

    身延山久遠寺を退出することが、

   日興上人にとっていかに情の面から忍び難いことであったか。

 しかしまた、御大法を正しく立て広宣流布を進めることこそ

       本門弘通の大導師としての責務である。

  日興上人はこの万感の御心情を、波木井の子息への御手紙の中で、

     次のように吐露あそばされている。
 
「身延沢を罷り出で候事、面目なさ、本意なさ、申し尽し難く候へども、

    打ち還し案じ候へば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、

        世に立て候わん事こそ詮にて候へ。

    さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候ぬ。

  日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚へ候へば、

            本意忘るること無く候」(原殿御返事)

  まことに情理を尽くしたこの御心情、この御決意、とうてい涙なくしては拝し得ない。

     かくて正応二年の春、日興上人は戒壇の大御本尊を始め、

   一切の重宝を奉持し、一門を率いて身延の山を下られたのである。

 

 大石寺建立

 身延を後にされた日興上人の御一行は、

   まず富士川添いの河合にある上人の祖父・由比入道の邸に入られた。

 この事を知った富士上野の地頭・南条時光(上野殿)は、

  自領内に移住せられんことを懇に願い出た。

  この懇請を容れて、日興上人は南条家の持仏堂(下之坊)に移り給うたのである。

 南条家の北東半里のところに「大石が原」という雄大なる地域がある。

   この地は東一里(四キロ)に戒壇建立の地「天生原」をのぞみ、

   南には駿河湾を一望するという勝地である。

   ここに日興上人は広宣流布の根本道場を建立せんとせられた。

  かくて南条時光の外護のもと、

  新田信綱(日目上人の兄)が与力して正応二年秋よりその工が始められ、

       翌正応三年十月十二日に落成した。

  日興上人はこの寺を地名を以て「大石寺」と号され、

  ここに「本門戒壇の大御本尊」および大聖人の御霊骨を奉安し、

     「広布の気発するまで異地に移すべからず」(家中抄)と仰せられ、

   この大石寺を広布の根本道場と定め給うたのである。

 

  大石寺落成の翌日の十月十三日、

  日興上人は日目上人に内々に血脈を相承し、その証として

   「御座替わりの御本尊」を書写し日目上人に授与された。

  この時日興上人四十五歳、日目上人三十一歳であられた。

      まさに令法久住の深きおぼしめしをここに拝する。

  さらに八年後、日興上人は大石寺の東に隣接する重須(北山)に

    談所(学問所)を開き、自らそこに移り、学徒の養成に務められた。

 富士に一門の本寺・大石寺が建立されてより、

   大法弘通は日興上人の総指揮のもと、

     日目上人・日華・日仙・日尊等の死身弘法により全国におよんだ。

  その教域はなんと、東北は奥羽より、西南は近畿・山陰・四国・九州にまで及んでいる。

      当時の交通不便の状況に思いを至せば、この弘通は驚嘆のほかはない。

     以て富士門流の広布の熱情を推知すべきである。

 

  また国家諌暁も、大聖人の御聖意を継ぎ、「日蓮聖人の弟子・日興」と名乗られ、

  武家あるいは公家に、日目上人等を代奏として幾度も申状を奏呈されている。

 

 日目上人への御付嘱状

  正慶元年十一月十日、

  八十七歳の日興上人は、後々のために「日興跡条条事」と題する

     日目上人への御付嘱状を書き置かれた。

 

 日興跡条条事


一、 本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と為し、

   日本乃至一閻浮提の内・山寺等に於いて、半分は日目嫡子分として管領せしむべし。

   残る所の半分は自余の大衆等之れを領掌すべし。

一、 日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を相伝す、

        本門寺に懸け奉るべし。

一、 大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之を管領し、修理を加へ勤行を致し、

          広宣流布を待つべきなり。

  右日目は十五の歳日興に値い法華を信じて以来、七十三歳の老体に至るまで、

        敢えて遺失の儀なし。

   十七の歳日蓮聖人の所(甲州身延山)に詣で御在生七年の間常随給仕し、

  御遷化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依って、

     此くの如く書き置く所なり。  仍って後の為、証状件の如し。

                            十一月十日 日興 判 

  御文の中の「本門寺」とは、

 大聖人が「富士山に本門寺の戒壇を」と御遺命された 広宣流布の暁の国立戒壇である。

第二条の「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊」とは、

  本門戒壇の大御本尊の御事であり、

  この大御本尊を広宣流布の日「本門寺の戒壇」に安置すべしとのことでる。

 まさにこの条目の意は、大聖人から日興上人への「一期弘法付嘱書」と全く同じである。

 

 二十六箇条の御遺誡

  御遷化の一ヶ月前、日興上人は広宣流布達成・仏法久住のための指針として、

     二十六箇条にわたる「遺誡置文」を門下一同に遺し給うた。

 その主な条目を挙げれば、まず冒頭に
    「一、富士の立義、聊も先師の御弘通に違せざる事」

    「一、五人の立義、一一に戦死の御弘通に違する事」

         の二箇条が示されている。

  これこそ、日蓮大聖人の仏法を清く正しく伝えている唯一の正系門家は、

    日興上人の富士門流すなわち富士大石寺以外にはないことを

       末代に示し給うたものである。

   源濁れば流れ清からずという、

  五老僧の流れを汲む現在の身延・中山・池上等の不相伝日蓮宗が、

        師敵対の謗法の宗であることはこれでよくわかる。

  いわんや立正佼成会・霊友会等の新興邪宗においておやである。

また中ごろに次の一条が示されている。
   「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通をすべき事」と。

  大聖人の御遺命たる広宣流布・国立戒壇を実現せんとの

      日興上人の烈々たる御情熱が、この一条にこめられている。

  この御情熱が、交通不便の当時において、

 北は奥羽より南は四国・九州に至るまでの富士門流大折伏となってあらわれたのである。

  交通至便の今日、もし広布達成が叶わなければ、

    末弟たる私達はまさに懶惰懈怠のお叱りを受けるであろう。

 

 次の二条も時に当って重要である。
    
「一、時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」

   本宗においては貫首(法主・管長)の権威は絶対である。

  ただしその貫首であっても、もし大聖人の仰せに違う己義を構えたら、

     その貫首の云うことを用いてはいけないと仰せられる。

  日興上人が仏法を守るにいかに厳格であられたか、深く拝し奉らねばならない。

  また
    「一、衆議たりと雖も仏法に相違あらば、貫首之を摧くべき事」と。

  たとえ大勢の意見であっても、それが仏法に相違する時は、

     貫首はそれを摧くべきであると仰せられている。

 この二箇条は常には起こり得ぬ非常事態である。

     ただし広布の途上には、稀にこのようなことも起こるのであろう。

 今日、日蓮正宗の中で創価学会が数を頼み、

  己れの政治野心を遂げんがために時の貫首を籠絡し、

  御遺命の国立戒壇を否定するごときは、まさにこの非常事態に当るであろう。

      日興上人の将来を慮っての万々の御教誡、伏して拝し奉るべきである。

 

「遺誡置文」の末文には
  「万年救護の為に二十六箇条を置く。

  ――此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず」と。

  まさにこの「遺誡置文」は、広布の嶮しき道の安全を期するための、

     万代の亀鏡なのでる。

   かくて、大聖人滅期五十三年にわたり、

  広宣流布・国立戒壇の礎を固め給うた日興上は、正慶二年(元弘三年)二月七日、

  重須の郷において御寿八十八、薪尽きて滅するがごとく安祥として入滅あそばされた。

 家中抄には
   「およそ御臨終に至るまで曾て以て老耄の義なく、亦病痛ある事なし」と。

 またその御臨終のさまは、近侍した三位日順の記録に云く
   
「駿州富士重須の郷に坐まし、臨終正念にして説法時を移し、

     面貌端厳にして終に以て遷化す」(日順阿闍梨血脈)と。

  まさに第二祖日興上人の御一生は、

   御本仏日蓮大聖人の御化導を、唯仏与仏の御境界において助けまいらせた、

        末法下種の僧宝の御振舞であられた。

 

  日目上人の死身弘法

 第三祖・新田卿阿闍梨日目上人は、文永十一年十五歳の時、

  たまたま伊豆の走湯山を訪れた日興上人の凛々たる御説法にふれ、

    宿縁一時に薫発して日興上人の弟子になられた。

  二年後の建治二年、日興上人に伴われて身延山の大聖人のもとに詣で、

     それより御在住の七年間、大聖人に常随給仕の赤誠を尽くされた。

その行体がいかに堅固であられたか、日亨上人は
 
  「目師はいちじるしく行体堅固で、大聖人への薪水の労をとられるときは、

 毎日幾度か身延の谷河に下りて水を汲んでは頭にその桶をいただきて運ばれたので、

  自然に頭顱(頭の骨)が凹んだので、御影像にもそれを顕わしてある」(日興上人詳伝)

             と述べられている。

  このような常随給仕の中で、

  日目上人は大聖人の御説法を一言も聞きのがすことなく、

        また自ら御書を心肝に染められた。

   その真剣なる教学研鑽は、まさに砂地が水を吸うごとくであられた。

 国家諌暁

「日興跡条条事」において日興上人は日目上人を讃嘆して
   
「御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、

     奏聞の功他に異なるに依って、此くの如く書き置く所なり」と記しておられるが、

  日目上人の身命も惜しまぬ国家諌暁の大功は門下に肩を並べる者なく、

      公家武家への諌奏実に四十二度の多きに及んだといわれる。

  ことに弘安四年、

   大聖人は最後の御諌暁として朝廷に申状(園城寺申状)を奏上されたが、

  この時、大聖人・日興上人の代官として京都へ赴かれたのが、日目上人である。

  翌弘安五年、大聖人はさらに日目上人に命じて、天意を奉伺せしめられた。

 この時後宇多天皇は大いに大聖人の誠忠を嘉みし、

朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」との「下し文」を下賜された。

   これが「弘安五年五月二十九日の御下文」である。

  日興上人は日目上人のこの大功を賞せられ、正慶元年十一月三日御本尊を授与し、

その脇書に
   「最初上奏の仁、新田阿日目に之を授与す、一が中の一弟子なり」と記されている。


 最後の国諌

   正慶二年二月七日、日興上人御遷化。

これより日目上人はただ御一人で、

 富士一門の大導師としての重責を負う立場に立たれた。

そしてその年、長きにわたって謗法を続けてきた北条幕府が滅亡し、

  京都の朝廷が政権を掌握した。いわゆる「建武の中興」である。

 それまで、数十度の国諌に成果が得られぬことを悩みとしておられた日目上人は、

     今こそ無二の国諌の好機と御決意された。

 この時、日目上人すでに七十四歳であられた。

  しかもこの御老齢に加え、たびたびの奥州下向と国諌の長旅に、

   いつしか足の踝をも痛めておられた。

当時の日目上人の御手紙には
    「是も左つぶふしを十余日病みて、右のそばはらを労候なり」とある。

   このような御身体で、もし京都への天奏を企てるならば、

 無事帰山のかなわぬことはすでに御覚悟の上であられた。

  しかし日目上人は“弘安四年の「園城寺の申状」と「御下し文」を明確にし、

   大聖人の宿願を天子の耳に入れる好機はこの時を逸してはない、

 黙視しては大聖人に申しわけなし”と、捨身の御決意に立ち給うたのである。

     その年の十月、日目上人は後顧の憂いなきよう、

  日道上人に内々に血脈相承をあそばされた。

 翌十一月、寒風の中、日尊・日郷の二人の弟子を杖と頼み、

   老弱の足をふみしめて大石寺を出発、京都へと向われた。

  御一行は蒲原から東海道に入り、難所の宇津の山を越え、

  大井川を渡り、三河を経て美濃の国(岐阜県)に入った。

    すでに大石寺をあとにして十余日、日目上人の歩みは次第に遅くなられた。

  そして雪深き美濃の垂井にさしかかった時、

   折から伊吹山から吹き下ろすみぞれまじりの寒風に、手足凍え、老脚ついに進まず。

 日尊・日郷の二人は、上人を垂井の宿に御案内申し上げた。

    旅の宿に身を臥せ給うた上人は再び立つ能わざるを知り、

     真心の看護をつくす二人に臨終の近きを告げると共に、

 日尊には京都へ登り天奏を遂げること、

  日郷には大石寺へ戻り日道上人に報告すべきことを御遺言された。

 そして十一月十五日、枕辺に御本尊を奉掲し、静かにお題目を唱え始められた。

  弟子二人は直ちに唱和する。その中に日目上人は安祥として息絶え給うた。

 そのさまは
    
「臨終の御勤めましまして、両眼眠るが如く、口唇誦するが如くに、息止みたもう」

        (家中抄)と。

 この時、御所持の申状に云く
      「
日蓮聖人の弟子日目、誠惶誠恐謹んで言す。

    ――仏滅後二千余年の間、正像末の三時流通の程、

           迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三あり。

      所謂、法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。

    ――法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え、国も栄えん。

     ――日目、先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ」と。

 

 「先師の地望」とは何か。

    大聖人の御本願たる広宣流布・国立戒壇建立以外にはない。

 いま日目上人は、日蓮大聖人の弟子・日興上人の遺弟として、

    御遺命実現にその尊き一身を抛たれたのである。

大聖人は
     
「仏法を得べき便あらば身命を捨てて仏法を学すべし。

       とても此の身は徒に山野の土と成るべし。

  迹門には『我身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ』ととき、

  本門には『自ら身命を惜しまずととき、

 涅槃経には『身は軽く法は重し、身を死して法を弘む』と見えたり。

  本迹両門・涅槃経共に、身命を捨てて法を弘むべしと見えたり」(松野殿御返事)と。

また日興上人は
  「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事」(二十六箇条)

   と御遺誡せされた。

 この宗開両祖の御金言を、いま身を以て実践し後代に示し給うた聖者が、

     まさに第三祖日目上人であられた。

この死身弘法の御徳、そして日興上人が

  「本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と為し」(日興跡条条事)

 と仰せられたことから、“広宣流布の時には日目上人が御出現になる”との伝承が、

  今に伝えられている。

  時はすでに広布前夜、目師御出現の近きを確信せずにはいられない。

 

    日寛上人の講学

     第二十六世日寛上人は、大聖人滅後約四百年に出現された。

           十九歳で出家し、日永上人(第二十四世)の弟子となられている。

        以来上人は天性の聡敏に加え、血のにじむような御研鑽をされ、

               非凡絶倫の大学匠になられた。

    上人御出現の時代背景としては、奇しくもこの頃までに、

        不相伝家の日蓮宗諸派の学者が四方に出て、邪義が出尽くしている。

   すなわち顕本の日什、

               八品の日隆・日忠、

              身延の日朝、

              要法寺の日辰・日饒

               妙本寺の日我、

              不受不施の日講           等である。

        実に日寛上人は、これら大聖人滅後に出尽くした邪義を粉砕し、

              正系門家相伝の三大秘法の正義を顕わし、

       以て後世の広宣流布に備えるために出現せられた御方であられる。

   師の日永上人は日寛上人の非凡の智解を見抜き、

        正徳元年四十七歳の上人を大学頭に任じ、

         日目上人の旧跡蓮蔵坊において御書を講ぜしめた。

   これより日寛上人は大弐阿闍梨と号されている。

     享保三年、日寛上人は日宥上人より譲りを受け、

          大石寺二十六代の法主となられたが、三年後に日養上人に譲り、

      もっぱら後代のために御書文段等の著述に取りかかれた。

   しかし享保八年に日養上人が遷化され、一山大衆の請いにより再び猊座に登られた。

          上人の著述の主たるものは、御書文段と六巻抄である。

    御書文段は、観心本尊抄・開目抄・撰時抄・報恩抄・法華取要抄・当体義抄等の

         重要御書を科段を設け、その文意を詳細に説き明かされたもので、

   まさに読む者をして明鏡に向うの感を懐かしめる。

      この中に大聖人の三大秘法の秘奥はすべて尽くされ、

        その明静なることはまさに古今独歩である。

    日寛上人の御著述は、すべて広宣流布に戦う後代の弟子のために

       著わされたものである。

  ゆえに観心本尊抄文段には
     「これを後代の君子に贈る。苦に三仏の顔貌を拝せんことを期するのみ」と。

  また六巻抄には
  「
謹んで三大秘法の明文を考えて文底秘沈の誠証に擬し、以て後世の弟子に贈る。

        此れは是れ、偏えに広宣流布の為なり。

           必ずその近を以て之を忽せにすべからず (依義判文抄)と。

 また六巻抄を後嗣の日詳上人に伏せられた時
     「
此の書六巻の師子王ある時は、国中の諸宗・諸門の狐兎、

       一党して当山に襲来すといえども敢えて驚怖するに足らず。

                尤も秘蔵すべし、尤も秘蔵すべし」   とも仰せられている。

    以て日寛上人の御意が偏えに広宣流布のため、

      後代の弟子のためということがよくわかるであろう。

    かくのごとき大学匠の日寛上人は、また決して学問一点ばりではなく、

       信行兼備の御方であられた。

   上人の時代には大石寺一門の弘通も大いに進み、

 また上人は唱題の大事をことに強調せられ、大石寺境内に「常唱堂」という堂を建てられ、

    弟子をして一日不断、交替で題目を唱えしめられたという。

     「ふじのねに、常にとなふる堂たてて雲井にたへぬ法の声かな 」  とは、

   その時詠まれた上人の一句である。

  また今日に伝えられる上人の数々の逸話は、みな珠玉のごとく美しきもので、

      これまた上人の天性の徳を物語るものである。

 上人は、六巻抄等の所述が大聖人の御意に叶うものであることを

     後世に信ぜしめるめ、御自身の臨終を以てその証拠とせられた。

 すなわち御遷化の年の二月、

   江戸常在寺において観心本尊抄を講じ終えられた上人は、

         一座の大衆にたわむれのごとく仰せられた。
 

   「法華経を漢訳したかの羅什三蔵は、自身の訳経の誤りなきことの証拠として、

 生前大衆に“我が身死して火葬に付する時、身は灰となるとも清浄の舌ばかりは焼けず”

 と語っていたが、果してその通りになったので羅什の訳経は後世に信じられたのである。

    いま日寛、たとえ富楼那の弁を得、目連の通を現ずるとも、

  云うところ当らなければ誰人が信じよう。

     ゆえに羅什の故事にちなみ、日寛も一つ云い残すことがある。

   すなわち臨終の時、日頃好むところのソバを食し、唱題のうちに臨終すべし。

     もし臨終思うようにならずこのこと叶わなければ信ずるに足らざるも、

    もしこの通りになっら、日寛の所説は大聖人の御意に寸分も違わずと、

                     堅く信ずべきである」   と。

     かくて上人は大石寺に帰山され、まもなく日詳上人に血脈相承をされた。

        この頃より、上人の御身体は急に衰弱された。

    御身を案じてしきりに医薬をすすめる周囲に対し、上人は

         「生死はただ仏意に任すべし

            と仰せられ、全く薬餌を用いられなかった。

   すでに“為すべき事は為しおえた”との、深き御心境からのお言葉であろう。

    八月、一切の後事を細々と日詳上人に遺言された上人は、

  衰弱の身をカゴに託し、大石寺の諸堂を廻って御暇ごいをされ、

    八月十八日の深夜にいたり  「我まもなく死すべし」 と侍者に告げ、

          辞世の一偈一句をお書きになられた。

    「本有の水風 凡聖常に同じ 境智互に薫じ 朗然として終に臨む」と。

    そののち直ちにソバを打つことを命じ、七箸これを召し上がられると、

  笑みを含んで   「ああ面白きかな寂光の都は」   と仰せられた。

   そして手口を水で清められたのち、御本尊に向い一心に唱題されるなか、

    半口半眼にして安詳として遷化あそばされた。

      時に享保十一年八月十九日、御歳六十二歳。

    このような臨終の御振舞は、とうてい凡夫のなせるところではない。

        かくて日寛上人の御指南は、堅く後世に信じられたのである。

 

  冨士大石寺の宿願

    冨士大石寺が正しい理由は三つある。

一には、戒壇の大御本尊がましますこと

二には、血脈相承

三には、国立戒壇(近くは日本・遠くは全世界の人類帰依)の御遺命を使命としていること

 この三つは、大聖人から日興上人への「一期弘法付嘱書」に、はっきりと示されている。

   しかし近年、広布前夜の魔障のゆえか、

     国立戒壇の御遺命が正系門家において抹殺されんとしているので、

   改めて冨士体石寺七百年の宿願が国立戒壇にあること述べておく。

  大聖人の御遺命が、

    広宣流布の暁に国家意志の表明を以て富士山天生原に建立される

        国立戒壇であることは、すでに説明した。

   この御遺命を奉じて、二祖日興上人以来七百年、

      歴代御法主が異口同音に国立戒壇を唯一の宿願として叫び続けられて来た

            その文証を、ここに挙げてみよう。

  まず二祖日興上人

 「広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時、必ず富士山に立てらるべきなり」        

                                    (門徒存知事)

  「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、

            三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」     (大坊棟札)

  二十六代日寛上人

    「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。

       御相承を引いて云く

   『日蓮一期の弘法、乃至国主此の法を立てらるれば

     富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と云々」   (報恩抄文段)

  三十一代日因上人

    「国主此の法を持ち、広宣流布御願成就の時、

      戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置する事、御遺状の面に分明なり

  三十七代日棒上人
 

   「仏の金言空しからずんば、時至り天子・将軍も御帰依これ有り。

    此の時においては、富士山の麓天生原に戒壇堂造立あって――」(御宝蔵説法本)

  四十八代日量上人

   「事の戒壇とは、正しく広宣流布の時至って、

      勅宣・御教書を申し下して戒壇建立の時を、事の戒壇というなり

  五十六代日応上人

    「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、

     これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜わり、

   富士山の麓に天生ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって――」

                          (御宝蔵説法本)

  五十九代日亨上人は       

  「宗祖・開山出世の大事たる政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ

                                 (大白蓮華十一号)

  「唯一の国立戒壇すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、

                  その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)

  六十四代日昇上人

 「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり

                                    (奉安殿慶讃文)

  六十五代日淳上人

  「蓮祖は国立戒壇を本願とせされ、これを事の戒壇と称せられた」(日淳上人全集)

  「この元朝勤行とても、

   宗勢が発展した今日、思いつきで執行されたというものでは勿論なく、

     二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を

       念願されての広宣流布祈願の勤行を、伝えたものであります

                                  (大日蓮三十四年一月号)

   以上は、

   歴代法主上人が国立戒壇の御遺命を叫ばれた文証の中の九牛の一毛である。

    およそ本宗の御法主として、国立戒壇を叫ばれなかった上人は、

       七百年間一人としておられない。


 細井管長も曽ては国立戒壇

   後に創価学会に迎合して国立戒壇を否定した六十六代日達上人(細井管長)すら、

 御登座直後には
 

富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命」(大白蓮華三十五年一月号)

事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することで

 ございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立の戒壇であります

        と正義を述べられている。          (大日蓮三十六年五月号)

   

 創価学会も曽ては国立戒壇

  創価学会も日蓮正宗の信徒団体であるから、曽ては当然国立戒壇を目的としていた。

  ゆえに同会第二代戸田会長

  「化儀の広宣流布とは国立戒壇の建立である」(大白蓮華五十八号)

  「我等が政治に関心を持つゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。

        すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」(大白蓮華)

そして三大秘法抄を講義しては

 「『戒壇を建立すべきものか』とは、未来の日蓮門下に対して、

    国立戒壇の建立を命ぜられたものであろう」(大白蓮華六十六号)等と述べている。

  また御遺命破壊の元凶たる同会第三代会長・池田大作も曽ては

      「仏命たる富士山に本門寺の戒壇の建立は未だならず、

 『時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり』の御予言こそ、

    残された唯一の大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。

   これを化儀の広宣流布と称し、国立戒壇の建立というのである」(大白蓮華五十六号)

  「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十余年来の日蓮正宗の宿願であり、

      また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華五十九号)と。

   以上、冨士大石寺七百年の唯一の宿願が国立戒壇の建立にあること、

              天日のごとく明らかであろう。


 広布前夜の摩障

 しかるに、この大事な御遺命、宗門七百年来の宿願が、

             いままさに破壊されんとしている。

      これこそ正系門家を襲う広布前夜の魔障なのであろう。

   すなわち池田大作は、国立戒壇の主張が選挙に不利なことと

  自己の名利から、大石寺の境内のはずれに俄に「正本堂」という建物を立て、

   これを“御遺命の戒壇”と偽り、宗門内外を誑した。

  悲しいかな時の法主たる細井管長は学会の強大な権力に迎合して、

     この誑惑に与同された。

    ここに法主の権威を以て「国立戒壇」は否定され、

               「正本堂が御遺命の戒壇」と喧伝されたのであった。

  当時の物狂わしい誑惑の文証を示そう。

 まず池田大作

  「本門戒壇を建立せよとの御遺命も、

    目前にひかえた正本堂の建立によって事実上達成される段階となった。

   七百年来の宿願であり、久遠元初以来の壮挙であることを確信してやまない

                                (立正安国論講義)と。

 細井管長
    「
国立戒壇は本宗の教義ではない」(大日蓮三〇五号)

  「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、

    王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華二〇一号)と。

  また学会発行の辞典には
 「
正本堂の建立により、

   日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。

   これこそ化儀の広宣流布実現であり、世界にいまだ曽てない大殿堂である

                (仏教哲学大辞典)と。

 また宗門役僧たちも

  「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。

   この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、

  二祖日興上人より代々の御法主上人の御祈願せられて来た重大なる念願であります

                           (大日蓮二六一号)と。

   まことに、天を地といい、白を黒というほどの無慚な誑惑ではないか。

       御本仏の一期の御遺命はここに破壊されんとした。

  まさに広布前夜の魔障が正系門家を襲ったのである。


 正しき団体 顕正会

   大事の御遺命が破壊されるのを眼前にして、黙止しているのは無道心、

       そして不忠の者である。

 大聖人は 「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ」  と誡め給い

  また二祖日興上人は

     「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事

               と御遺誡されている。

 この宗開両祖の御誡めのまま、顕正会は敢然と御遺命守護の御奉公に立ち上がった。

  昭和四十五年三月からの連々たる顕正会の諌めにより、

   池田大作は昭和四十七年十月の正本堂落成式に行うことを予定していた

        「広宣流布達成・御遺命の戒壇成就」の公式宣言だけは見送った。

   しかし、近き将来この誑惑を完結せんものと、

   まず池田は細井管長を動かして、邪魔になる顕正会(当時妙信講)

     解散処分を下さしめた。昭和四十九年八月十二日であった

    解散処分とは日蓮正宗の信徒団体にとって死罪に等しい処分である。

 宗門七百年の歴史において、

   御遺命の国立戒壇を主張して解散処分を受けた講中がどこにあろう。

    また、かかる処分を受けてなお存続し得た講中がどこにあったであろうか。

  しかるに顕正会は処分当時の一万二千より、現在百万に達せんとしている。

 御書に云く
     「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる」(大悪大善御書)と。

   七百年来曽てなかった御遺命破壊の大悪こそ、

  まさに広宣流布・国立戒壇建立が、いよいよ事実となる大瑞ではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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