仏法とは


 

 

 仏法とは、生命の真実の相を知ることにより、

   「成仏」という永遠に崩れぬ幸福境界を得る実践法である。

   “生命の真実の相を知る”とはどういうことか。

 

 今日、科学の分野においても、生命に対するさまざまな解明が行われているが、

    これらは未だ部分の解明にすぎない。

 仏法でいう生命の実相を知るとは、

  空間的には我らの生命を生み出した大宇宙との関係より我が生命の本質を見究め、

    また時間的には、三世永遠の時間より我が生命を見つめることである。

 かくて、大宇宙と一体にして無始無終なる我が生命の実相を把握した時、

   「成仏」という無上の幸福境界を得るのである。

 

 このことを日蓮大聖人は

 「およそ成仏とは、我が身を知って仏に成るとは申すなり」    (十二因縁御書)

                    と仰せられている。

 

  しかし、智恵浅き我ら凡夫がいかに力むとも、

  このように三世と法界を尽くして生命の真実の相を見究めるなどということは、

                          できるわけがない。

  それでは、「成仏」という幸福境界は凡夫には得られないのであろうか。

             ここに仏様の大慈悲の御化導がある。

 仏とは、キリスト教における神のような、想像上の仮空の存在ではない、

           歴史上に実在する覚者である。

 

  仏と我ら凡夫との違いは、智恵と慈悲の深さ・広さにある。

    仏とは、大智恵を以て生命の極理を覚り、

        まず御自身が唯一人成仏の境界を証得された。

 この仏様の思いは、“何としても一切大衆をこの幸福境界に導き入れたい”

      との念願だけである。

 かくて大慈悲を以て一切大衆に教えられた成仏への実践法が、すなわち仏法なのである。

 

*人生の目的とは何か


 人生の目的を知らずに生きているのは、

  行き先のわからぬバスに乗っているのと同じである。 

    しかし実際には、多くの人がこの大事を知らない。

 

 ゆえに目的もないままただ宿命に流され、欲と瞋りと愚痴に引きずられ

   空しく一生を過ごして死を迎えるというのが一般となっている。

 さて、「人生の目的とは」と問われれば、多くの人は返答に窮する。

  そして一考ののち、自分が将来なりたいものを挙げて、

  あるいは「実業家」「政治家」「スポーツ選手」あるいは「デザイナー」「音楽家」「タレント」

      あるいは「学者」「弁護士」「医師」などと云うかも知れない。

 

 しかしこれらの回答は、目的と手段を混同している。

   「音楽家になりたい」等の志望は、

      人生の目的を達するための手段あるいは条件にしか過ぎない。

 では、人生の目的とは何かといえば、それは「幸福」ということである。

 人は幸福になりたいからこそ、

   その手段として「音楽家になりたい」等の志望を懐くのである。

 

 そこには、意識・無意識を問わず、

 「実業家になったら幸せになれる」「音楽家になれたら分は幸福だ」という期待が、

          大前提として存在している。

 

 かく見れば、まさに幸福こそ、万人共通・普遍的な人生の目的である。

 さて、人生の目的が幸福であることがわかっても、

  すぐ崩れてしまう一時的な幸福は真の幸福ではない。

    真の幸福とは、永遠に崩れぬものでなければならない。

 この無上最大の幸福を成仏の境界という。

   されば人生の究極の目的は、まさに成仏の境界を得ることにある。

 

*地位や財産等と幸福の関係

 人は幸福への手段・条件として、

    地位や財産や名誉その他もろもろの欲するものを手に入れようと努力する。

  だが、これらの“欲しいもの”が手に入ったら、果して幸福になれるであろうか。

 

 結論から先に云えば、

  もしその人の生命が濁っていれば、求めて得たものは、かえって不幸の因となる。

    濁った生命とは、貧欲・瞋恚・愚痴・慢心などに覆われた

             地獄・餓鬼・畜生・修羅等の四悪道の生命をいう。

  家を建てるのに、傾いた土台の上に建てればすべてが傾くように、

 四悪道の生命においては、求めて得た幸福の条件が、かえって苦報をもたらすのである。

 

   たとえば世間を見るに、欲しくてたまらぬマイカーを手に入れて、

          その結果取り返しのつかぬ事故を起こした例は数多い。

   また憧れのマイホームを建てたが、

           ローンの返済に追われて家庭崩壊に至った例も多い。

 

    あるいは子宝に恵まれた若い母親が、

           育児ノイローゼになって自殺したという悲劇もある。

    また日本の総理大臣として最高の地位と権力を手中にした田中角栄は、

           その権力が仇となって身を亡ぼしている。

     また韓国の大統領として最大の権力と名誉を一身に集めた全斗煥は、

          いまや落魄の身となっているではないか。

 地位や財産などが即幸福ではないことがよくわかろう。

 

   所詮、主体たる生命が濁っていれば、

      幸福の条件と思われるものがかえって不幸の因となり、

  また福運が尽きれば、その人の才能さえ幸福をもたらさないのである。

 

この理を大聖人は
  「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず、果報つきぬれば所従もしたがはず」

       (四条金吾殿御返事)   と端的に御指南下されている。

  幸福になるには、外の条件を追い求めるのではなく、

       内なる生命を見つめなければいけない。

  すなわち正しい仏法を実践して我が身に具った福運だけが、

                   崩れぬ幸福を築くのである。

 

*幸福とは何か

 ここで「幸福とは何か」ということを明確にしておかねばならない。

   世間には幸福について論じた書物は無数にある。

  しかし幸福の普遍的本質を解明したものは、一つとしてない。

 ある学者は「幸福」について次のように定義している。

 「人間は生きていくなかでさまざまな欲求をもち、それが満たされることを願うが、

   幸福とはそうした欲求が満たされている状態、もしくはその際生ずる満足感である。」 と。

   (この誤定義は「キリスト教」「フリーメーソン」「創価学会:牧口論」に見られる)

 

  この説明は世間一般における最大公約数的な定義と思われる。

  要するに“幸福とは欲求の満足にある”というにある。

 

   だがこの説明では、欲求は人によってさまざまだから、

     幸福内容も人によって異なるという結論にならざるを得ない。

  それでは「幸福とは何か」ということの本質は、少しも解明されていないことになる。

 

 この論の誤りは、欲求満足を即幸福と短絡しているところにある。

    欲求は十界によってさまざまである。

  ことに地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界の四悪道においては、

  欲求そのものがゆがんでいるから、

  それを満足をすることはかえって自他の不幸を招くことに気づかねばならぬ。

 

 たとえば、盗みに成功した泥棒は餓鬼界の欲求を満足したわけであるが、

              これを幸福といえようか。

  また麻薬の常習者が禁断症状を脱れるためにさらに麻薬をのむ、

     この一時的欲求の満足が幸福だろうか、これは畜生界である。

  また虚栄を満足させることは、やがて身の破滅につながる。

  あるいはヒットラーのような男が征服欲を満足させることは、

       自他の不幸を招くではないか。これらは修羅界の欲求満足である。

 

  あるいは舎利弗・目連等の二乗は、煩悩を断滅して灰身滅智を希求したが、

   かえって「永不成仏」といわれて成仏の障害となっている。

         これ声聞・縁覚界の欲求満足である。

    このように、ゆがんだ欲求の満足はかえって不幸の因となる。

   “幸福とは欲求の満足である”とする論の誤りは明白であろう。

 

  では幸福とは何か・・・

   “人によってさまざまである”などという曖昧なものではなく、

        万人に共通する普遍的な幸福とはいったい何であろうか。

 これを解く鍵は、人間にとって最も大事なもの、貴重なものは何かということにある

   いうまでもない、人間にとって最も大事なものは我が生命である。

 

  大聖人の御指南を拝してみよう。

 「命と申す物は一身第一の珍宝なり。

    一日なりともこれを延るならば千万両の黄金にもすぎたり」                                        

                                  (可延定業書)

 「有情の第一の財は命にすぎず、此れを奪う者は必ず三途に堕つ」                     

                                 (主君耳入此法門免与同罪事)

 「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、『遍満三千界無有直身命』と

      説かれて、三千大千世界に満てて候財も、いのちにはかへぬ事に候なり」

                                      (白米一俵御書)

  人間にとって生命ほど大切なものはないとの仰せである。

            ゆえに人はこの生命を失うことを、何よりも恐れる。

 「世間に人の恐るる者は、火炎の中と、刀剣の影と、此の身の死するとなるべし。

     牛馬猶身を惜む、況や人身をや、癩人猶命を惜しむ、何に況や壮人をや」 

                                      (佐渡御書)と。

 

  以上の御指南を拝するならば、幸・不幸の本質が明確になるであろう。

  すなわち、生命の維持・発展が妨げられない状態を「幸福」といい、

      妨げられている状態を「不幸」というのである。

  ゆえに死は最大の不幸であり、

  またこの死をもたらすもの、すなわち生命の維持・発展を妨げるものを、

       人は不幸として本能的に恐れそして忌みきらう。

 

  大地震・戦争等が恐れられ、

 また病気・貧乏・家庭不和・仲間はずれ・軽侮されるなどが忌みきらわれるのも、

   これらが直接・間接あるいは肉体上・精神上の差はあっても、

           生命の維持・発展を妨げる要因になるからにほかならない。

 

  このように幸・不幸の本質がわかれば、

   これを基準として「価値・反価値」「善・悪」等の概念もはっきりとしてくる。

  これらの概念もまた古来より多くの哲学者が難解の言葉を用いながらも、

                一向に要領を得なかった事柄である。

 

  いま一言にして云えば、

   事物における、生命の維持発展に寄与する度合を「価値」といい、

  同じく害を与える度合を「反価値」というのである。

 されば、人々に永遠に崩れぬ幸福をもたらす日蓮大聖人の三大秘法こそ、

  個人にとって、国家にとって、人類にとって、

    最高最大の価値を有する教法といわねばならない。

   ちなみに、国家がこの価値に気づいた時、本門戒壇は立てられるのである。

  また「善」とは利他すなわち他を幸福にする行為であり、

     「悪」とは害他すなわち他を不幸にする行為である。

   ゆえに善の中の大善は人に三大秘法を勧める折伏行であり、

      悪の中の大悪は邪法を以て人を誑すことである。

 

*永遠に崩れぬ幸福

  さて前項で、人間にとって最も大切なものは身命であり、これを失うことが

        最大の不幸と述べたが、

 では人は誰でも死を迎えるから、永遠に崩れぬ幸福とはいったい何か

    という問題が浮かび上がってこよう。

 死を最大の不幸とするのは、一応現世に限った立場からみた所論である。

  再応深く見れば、生命は永遠であり、死によって消滅するものではない。

 

    生死という現象は生命が常住していく上での存在形態の変化にすぎない。

  換言すれば、生命は生死・生死をくり返しながら、宇宙と共に常住しているのである。

   そして三世にわたって幸・不幸の因果は鎖のごとくつながっている。

 

  ゆえに、もし現世において悪業を積むならば、その生命は死後に大苦を受け、

  もし正しい仏法を行じて成仏するならば、死後の未来は大安楽を受ける。

    しかも現世はわずか七十年、未来は永遠である。

 

  このことがわかれば、現世の寿命の長短などは小さな問題となる。

 最も重大なことは、一生にうちに成仏が叶うか否かということである。

 したがって、成仏・不成仏が証拠として現われる臨終こそ人生の大事ということになる。

  もしよき臨終を遂げるならば、永遠の生命の上からみてこれほどの喜びはないし、

 またもし堕獄の相を現ずるならば、これほどの不幸はないのである。

 

ゆえに大聖人は
 「日蓮幼少の時より仏法を学し候しが念願すらく、人の寿命は無常なり。

  出る気は入る気を待つ事なし、風の前の露尚譬えにあらず、

  かしこきもはかなきも、老いたるも若きも、 定めなき習いなり。

       されば先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし妙法尼御前御返事)

 

  人の一生はまことに短く儚い。

  しかし三世のつながりからこの一生を見た時、

   永遠の未来をはらんだ限りなく大事な人生ということがわかってくる。

 ゆえに「されば先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せられるのである。

 

  まことに仏法は、現世の安穏だけでなく、

   死を乗り越えてさらに未来永遠の幸福をもたらす、

        まさに現世安穏・後生善処の生活法なのである。

 今生に日蓮大聖人の仏法により成仏した者は、生々世々三大秘法と離れることはない。

 「過去の生死・現在の生死・未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを、

                    法華の血脈相承と云うなり」    (生死一大事血脈抄)

 「在々諸の仏土に、常に師と倶に生ぜん」              (同前)と。

 

  まことに御本尊の功徳により、現世には宿命転換して幸せになり、

       臨終には成仏の相を現じ、

  そして生々世々に大聖人の仏法に離れることなく

  自利々他の楽しく崇高なる人生を永劫にくり返すことが出来たならば、

         なんと素晴らしいことか。

    これが成仏の境界であり、永遠に崩れぬ幸福というのである。

 

 

 

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