神と仏の関係


 

   本来、神.善神とは仏の化導を助ける為に存在し、神だけの独立した存在ではない。

法華経が説かれた会座において、諸天善神は末法の法華経の行者の守護を誓ってる。 
 (天上界の神々は過去、この法 修行の功徳によって天上界に君臨する由である)

*よって 仏は主人、神は所従の関係である。

 神に執着し仏をあなずるところに一切の利益は生じない。

                          まして、故人の供養など到底かなうものではない。

 そして凡夫の妄想による、神においては言うに及ばない。

 あるいは犯罪者の祖先を持つものが、祖先を崇拝して利益あるべきはずもない。

   まして長年神道に執着する団体が犯罪の原因になっている場合がよくある現状だ。

       (暴力団・右翼は歴史の長い神棚信徒である。

   太古の昔、人類が大自然に対し無力さを感じ、

   その中から神々を感じ、信じたのは一分、値するが

   あくまでも部分観であり、仏教に至るまでの初門に過ぎない。

 大宇宙に存在する生命の根元たる絶大威力の実体を、凡夫の頭で空想するところから

                   世界の間違った見識の宗教は始まっている。

  特に日本は戦後、<神社信仰系>+仏教を混ぜた邪教が多く発生し

 いまや明治神宮周辺に、軒を並べている。

   近年、唯一正しく法を説く為に出現された真の仏とは

         インドの釈尊と、日本の日蓮大聖人である。

  諸天善神には、天照大神.八幡大菩薩 等、有名だが

  これらすべて日本人の機を 熟す為の釈尊の垂迹にほかならない。

    中には きつね等を祀る神社があるが、

  人間より低級な動物を崇めるなど愚の骨頂である。

 

仏教は三世の因果を説く

 今生に人を殺したり 人を踏みにじって生きた者が

  来世 幸せになれるはずもなく、

 たとえ人と生まれたとしても、生まれつき不幸な環境を持つのは当然の報いである。

 そこに 仏は過去の罪業を消す法を持って出現された。

  

仏とは日蓮大聖人

  では、末法(釈迦仏滅後二千年以降の時代)の今日、

 世界の人類を「成仏」へと導いて下さる仏様とは何方かといえば、

   日蓮大聖人こそ末法唯一人の仏であられる。

 ここで、日蓮大聖人が仏であられることを少々説明すれば、

  大聖人は御年三十二歳の時、透徹した御智恵を以て自信の生命を観ぜられ、

  我が生命には大宇宙のあらゆる存在(十界三千の諸法)が本来具っており、

      我が身は即大宇宙(法界)であることを知り給うた。

この生命の極理が「一念三千」であり、大聖人はこれを(南無妙法蓮華経)と名づけられた

 これより大聖人は自ら「南無妙法蓮華経」と唱えられ、他人にもこれを勧め給うた。

 当時の日本では、国中に念仏・真言・禅・律等の邪法がはびこり、

       国主を始めとして全民衆がこれを信じていた。

 その中にあって大聖人は

  “諸宗は成仏の法ではなく、かえって人を不幸にする邪法である。

               成仏の法は南無妙法蓮華経以外にはない”と、

   声も惜しまず大慈悲を以て教えられた。

   邪法の輩は大聖人を憎み、その命を奪わんとして国主に讒言した。

ここに大聖人御年五十歳の時、ついに国家権力による死刑が執行されることになった。

 文永八年九月十二日の深夜、

  数百人の武装兵士が取り囲む刑場・竜の口の砂浜に大聖人は静かにお坐りになった。 

    首切りの役人が太刀を持って後ろに立つ、

 そして大聖人の御頸を刎ねんとした刹那、思議を絶することが起きた。

  突如として、満月のような光り物が海のかなたより現われ、光りわたったのである。

 その強烈な光に、太刀取りは目がくらんでその場に倒れ伏し、

  警護の兵士たちもあるいは逃げ出し、あるいはうずくまってしまった。

その中でただ大聖人だけが
  「頸切るべくわ急ぎ切るべし、夜明けなば見苦しかりなん」(種々御振舞御書)

        と凜然と叫ばれた。

   しかし誰一人として近寄る者とてない。

 すべての者が怖じ恐れ、大地にうずくまってしまったのである。

  まさに国家権力が、大聖人の御威徳の前にひれ伏したのであった。

 このような不思議な光景が、果して人類の史上にあったであろうか。

   誰人も壊すことのできない境界とは、このようなものである。

        キリストは磔になって横死しているが、

  「聖人は横死せず」(神国王御書)といって、仏に横死はない。

    凡夫の悪に押し切られて殺されるような境界で、一切衆生が救えるわけがない。

    国家権力が大聖人を殺さんとして、かえってその御威徳の前にひれ伏した

       厳然たる事実こそ、日蓮大聖人が仏であられることの確証である。

  大聖人の一代の御化導において、この竜の口の大現象こそ、

    大聖人が“法界を自身と開く”すなわち我が身即大宇宙という成仏の大境界を、

                事実の上に証得されたことを示すものである。

 ゆえに大聖人はその後、流罪の地佐渡において、この大法悦を

 「我等は流人なれども身心共にうれしく候なり。大事の法門をば昼夜に沙汰し、

       成仏の理をば時々刻々にあぢはう」         (最蓮房御返事)

 「無作三身の仏果を成就」        (義浄房御書)

 「夫れ一身に十法界を具す」 「故に成道の時、この本理に称うて、一身一念法界に遍し

                         (観心本尊抄)

      等と仰せられている。

 すなわち御年三十二歳からの身命も惜しまぬ御修行ここに成就して、

    御自身の生命が宇宙大の生命に広がり達する悠々たる成仏の大境界、

 誰人も壊すことのできない無上の幸福境界を、ここに証得し給うたのである。

 

 日蓮大聖人の仏法は、

  釈尊仏法の何度も生まれ変わり修行し、成仏するのに比べ

 末法の三毒強盛の凡夫が、わずか一生の修行で成仏のかなう最大深秘の法である。

 *かつて 昭和19〜20年、日本は国中あげて国家神道に励み、

   国家権力は 「富士大石寺」にある下種本仏たる大御本尊を軽んじ不敬にした。

  故に人類史上最も壮絶な原子爆弾を、2発も国家にうける羽目になった。

 そして時の猊下は国家の悪道を黙認したが故に、大石寺に大火災が起こり、

 その中で覚悟の遷化をしている。

     これが厳たる罰の証拠である。